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投稿時間:2002/11/13(Wed) 06:27
投稿者名:Zeb
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タイトル:
性善説と性悪説
実利的な意見で言えば、どちらも溺れてしまうと思います。
よっぽど水泳が達者でない限り。

グッチ殿:
<<子供が溺れている。
思わず母親が飛び込んで助けようとする。
これは知恵です。
説明のしようが無い、人間本来の行動。>>

同じようなことを言っていた人が中国にいたと思います。
孟子です。いわく、「人間の本性はすべからく善であるために
このような行動をとるのだ、」とか。

それに対して筍子と、彼から派生した法家の思想家達は
人間の本性がそもそも悪であり、それを矯正するために
法と社会制度を必要とするのだとか。

私見ですが、エジプトで言うマアトの思想も、宇宙の摂理と
道徳が結びついた意見で、人間が従うべき法が自然に存在する
と考える意見なのでは?

それに対して、キリスト教の「原罪説」やその他の原理的な宗教
からすると、むしろ後者の意見に従うような気がします。

投稿時間:2002/11/14(Thu) 00:09
投稿者名:岡沢 秋
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タイトル:
スレ埋もれかけてたので
 レスつけて上げてみます。
 性善説・性悪説については、田中芳樹の「創竜伝」の中で、「荀子がいつ悪いことしていいって言ったよ? 人間の本質は悪だけど、それでも良い方向に生きていくために法律があるんだって話だろうよ」…と、始兄さんが叔父さんに詰め寄っていたことしか知りませんが。

 偏りすぎですか。この知識は^^;

 で、とりあえず孟子も荀子も法律のあり方について述べるのが趣旨の話だったかと思うんですが(勘違いしてたらすいません)、
 人間の知恵がいかなるためにあるか? それは本来、善なるものなのか悪なのか、という話になると、確かに…エジプトでは「善」、聖書の世界では「悪」扱いされてるように思います。

 しかしエジプトの宗教で、なんで死者がイチイチ、神様の前で「私は悪いことしてません」と申し開きしなきゃならないのかというと、やっぱり悪いことをする人がいたからで。

 うまくいえませんが、古代エジプトでは、「神々の法律」は、魂を律するものではなく、魂が、それぞれにあるべき生き方をするために存在する、いわば「自然界の法則」で、
 キリスト教やユダヤ教などの厳格な一神教は、人間は神々の法律によって魂を律されなければたやすく道を誤るもの、という考え方ではないかと…Zebさんの仰ることもこれであってます…か?
 いまいち自信ないんですが^^;

 言うならば、エジプトのごとき生きかたは、それぞれの内側から出る真実に基づいて生きれば正しく生きられる、とし、聖書の世界では、外から与えられた真実に従うのが正しい生きかたである、としているのでしようか。

 ちなみに「マアト」って言葉は、真実のほかに、誠心、秩序、正義、裁判における公正さも意味する言葉なんだそうです。
 そして、「正しさ」はつねに「知ること」と深い関係にあり(知識=トト神と、マアト女神の関係のように)、マアトという言葉を書くと、中に巻物の絵文字が入ってきます。
 もしかすると、この古代社会では、知識と知恵はさほど変わらない意味か、または区別されていなかったのかも。

投稿時間:2002/11/14(Thu) 23:15
投稿者名:Zeb
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タイトル:
マアトの羽根
お返事ありがとうございます。

>
>  で、とりあえず孟子も荀子も法律のあり方について述べるのが趣旨の話だったかと思うんですが(勘違いしてたらすいません)、
>  人間の知恵がいかなるためにあるか? それは本来、善なるものなのか悪なのか、という話になると、確かに…エジプトでは「善」、聖書の世界では「悪」扱いされてるように思います。
>
>  しかしエジプトの宗教で、なんで死者がイチイチ、神様の前で「私は悪いことしてません」と申し開きしなきゃならないのかというと、やっぱり悪いことをする人がいたからで。

環境や教育が悪かったのでしょう…というのは軽口ですが。
そういえば、死者の裁判の時にマアトの羽根と心臓で重さ
を比べますよね。

あれはいつ頃からの信仰なんでしたっけ?それからなんの羽根
だったかな?それから歴史的にどのように正義について
どのように考え方が変わってきたのか。

(あ、いえ、これは自分に問い掛けているだけですので、
お返事してくださらなくても結構です(笑))

>
>  うまくいえませんが、古代エジプトでは、「神々の法律」は、魂を律するものではなく、魂が、それぞれにあるべき生き方をするために存在する、いわば「自然界の法則」で、
>  キリスト教やユダヤ教などの厳格な一神教は、人間は神々の法律によって魂を律されなければたやすく道を誤るもの、という考え方ではないかと…Zebさんの仰ることもこれであってます…か?
>  いまいち自信ないんですが^^;

そんな感じです。あとは、現実の社会との関わり、例えば裁判、法律も
その個々の文化に応じて変わって来るものなのでは?法学については
全くの素人ですけれども、バビロニアのハムラビ王が成文化
した「復讐法」を作った記録を初めてヨーロッパ人が発見した
ことを思い出します。裁判と宗教がどういう風にエジプトで
分割されていたのか知りませんが、エジプトでは神の輿だか、
を使ってなにやら神官達が裁判していたような記憶が。

そういえばアクエンアテンの話で、司法権を王権に戻すために都を
移したとかなんとか。(衛星放送だったかな?)

>
>  言うならば、エジプトのごとき生きかたは、それぞれの内側から出る
>真実に基づいて生きれば正しく生きられる、とし、聖書の世界では、
>外から与えられた真実に従うのが正しい生きかたである、としている
>のでしようか。
>
>  ちなみに「マアト」って言葉は、真実のほかに、誠心、秩序、
>正義、裁判における公正さも意味する言葉なんだそうです。
>  そして、「正しさ」はつねに「知ること」と深い関係にあり
>(知識=トト神と、マアト女神の関係のように)、マアトという
>言葉を書くと、中に巻物の絵文字が入ってきます。

人間の知性を重んじるかそうでないかも、人間を信頼しているか
そうでないかに拠るような気がします。人間を信頼しなければ
余計宗教に縋るような・・・・暗いものの見方ですけど。

投稿時間:2002/11/15(Fri) 21:29
投稿者名:岡沢 秋
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タイトル:
まったりいきたいですねー
 ここの掲示板的には、まったりとした語らいが欲しいんですよね。

> そういえば、死者の裁判の時にマアトの羽根と心臓で重さ
> を比べますよね。
>
> あれはいつ頃からの信仰なんでしたっけ?それからなんの羽根
> だったかな?それから歴史的にどのように正義について
> どのように考え方が変わってきたのか。

 あの、つい答えちゃって良いですか(笑) 
 マアトの羽根は、ダチョウの羽根だそうです。そんであれは、もとは大気の神シュウの印でもあります。大気→軽い 罪→重い、つうことで、羽根より心臓が重かったらアウト♪

 で、肝心の死者の審判なんですけど、「ピラミッド・テキスト」には出てきてなかったような気がします。登場するのは「死者の書」。

 ピラミッド・テキストは王の復活を描いたものなので、殺されたオシリスさんが蘇るまでの話を描いてますが、死者の書は一般市民が死者の楽園で蘇る話を描いてるので、楽園に至るまでの審判の場面が出てくる、と。

 ぶっちゃけ、王様は審判なんか受けないですよ(笑)
 王様は正しいに決まってンだよ、なんせ神意を代行してんだからさ、神様だって貢物と神殿で懐柔さぁ、ってな具合。

 そういや、中国では、天命によって王権を滅ぼすことがOKなんでしたよね。(「隋唐演義」とか)
 古代エジプトは基本的に駄目らしいです。古代エジプトの秩序というのは、王は王の、役人は役人の、市民は市民の役目を果たし、それぞれに相応しい生き方をすることなんだという哲学書みたいなパピルス文書が…。

> エジプトでは神の輿だか、
> を使ってなにやら神官達が裁判していたような記憶が。

 ああ、ありました。いわゆる「こっくりさん」ですネ。(笑)
 みんなで担いだ輿が、右左どっちに動くかで、Yes/Noの神託を受けたんでそうです。
 しかしそういう神託に頼るのは限られた時だけだったようで、裁判はフツウにやっていたようです。
 離婚裁判の経緯と結果だとか、相続問題だとか、エジプトの裁判記録パピルスはかなり残ってます。

 さすがに復讐法は無かったみたいですね。むしろ浮気したときの罰則がかなりシビアなんですが…耳と鼻そぎ落とすとか…。
 エジプト人はどちらかというと「復讐は神様に任せる。」という感じでしょうかね。

 神官が直接、法律にたずさわっていたかというと、そういうことはなくて、神官が王権をおびやかす→王様の権威が落ちる→役人が好き勝手やりだす→不正がまかりとおり、裁判が公正に行われなくなる、という図式だったのではないかと、(私は)思います。

 現代でもありそうなことです。^^;


> 人間の知性を重んじるかそうでないかも、人間を信頼しているか
> そうでないかに拠るような気がします。人間を信頼しなければ
> 余計宗教に縋るような・・・・暗いものの見方ですけど。

 そうですねえ。人が人の可能性を信じるのは実に大切なことだと思いますよ。神様より近いところにいますしね人間は。

 「科学が発展すると世界が滅びる」とか言ってる人たちも、もしかすると人間信じられていないのかもしれませんねぇ。
 人間の知性が高まると世界が滅びるって、どないやねん(笑)
 むしろ何があっても、人間らしい知性で危機を回避してみせろ、っちゅーほうに行くのが正しいのではないかと。いや最後のコレはあんまし意味ないですが。

投稿時間:2002/11/16(Sat) 02:06
投稿者名:グッチ
Eメール:
URL :
タイトル:
善悪について
こんばんは。
グッチです。

気をつけていたつもりですが、私のレスでまた不毛なやり取りが再会してしまったようですね。
申し訳ありませんでした。

善悪っていうのは難しいですね。
一筋縄ではいかないです。
それこそ、星の数程考え方があるように思います。

例えば、キリスト教の十戒はもちろん、その他の大抵の宗教でも「人を殺す無かれ」と言う事
が戒律として存在します。
しかしながら、この十戒が出てくる旧約聖書の出エジプト記では神様がエジプトの民を困ら
せて、挙句の果てに全ての家の長男を殺しまくります。それは、エジプトの王がユダヤ人を解
放しなかったからですが、ユダヤ人を解放しないように仕向けたのは神様自身だと言う事が出
エジプト記を読むと分かります。

つまり、出エジプト記が成立した時、「人を殺す無かれ」と言う戒律は道徳的な教えでは無かっ
たのでは無いか?
神様自身が人を大量に殺しているんです。
では、何故?
それは、人を殺す事によって、神が決めるはずの人間の運命を人間の手で操作しようとする行
為、言い換えると神に背く行為だから。そんな説も成り立つと思います。

道徳なんか関係なく、善悪の規準が神様なんです。
神様が殺せと言ったら、殺す事はこの上なく正しい事なんですね。
この例としては旧約聖書の創世記にあるアブラハムが息子のイサクを神様に命ぜられるまま生
贄に捧げようとしたくだりからも伺えます。

ただし、この部分のみを取上げて、キリスト教が野蛮な宗教だと言うつもりはありません。
飽くまでもこういう部分があるというだけで、当然の事ながらキリスト教神学ではそう言った記述の
位置付けや解釈が研究されているはずです。
こう言った「部分だけ」をとりあげて自分の都合の良い論理の証拠に仕立て上げるのが、知的水
準の低い詭弁家(大抵の場合その詭弁を正しいと信じ込んでいる節がある)に多い所謂「断章
主義」というやつですよね。

少々、横道にそれ過ぎてしまいました。

私個人の意見としてはこうです。

善:自己を損なわない行為
悪:自己を損なう行為

例えば、何かをする事によって自己の尊厳が傷つけられたら、その行為は善くない。
また、マルクス・アウレーリウスの自省録にある次の言葉は私の好きな言葉です。

蜂巣にとって有益でない事は、蜜蜂にとっても有益ではない。


また、福沢諭吉かそのあたりの時代の人物の話だったと思いますが・・・

子供の時の話です。
ある時、バチは本当に当たるものか疑問にかられた。
その後、神社に小便をして様子を伺った。
バチは当たらなかったようだ。
それを近所のご隠居みたいな老人に自慢気に話した。
すると、その老人は怒った。
「神社は小便をするところでは無く、祈りに行く所だ!」
「神社に小便をするのは犬か猫だ!」
「お前は人間では無く、犬か猫と同じ行動しか出来なかったんだ!」
「お前が神社に小便をした事自体がバチが当たった証拠だ!」

この話の中でも悪い事は自分自身の尊厳を損なうと言う思想が流れているように
感じます。

なんか、取り留めが無くてすみません。
本当は、ここから神話の話題とかにも触れたかったんですが、長くなりすぎました。
それでは。

投稿時間:2002/11/16(Sat) 13:03
投稿者名:岡沢 秋
Eメール:
URL :
タイトル:
長くても、わりといけますよ
 どうも、再度のご来訪&書き込みありがとうございます。

> 気をつけていたつもりですが、私のレスでまた不毛なやり取りが再会してしまったようですね。
> 申し訳ありませんでした。

 いえいえ。大変わかりやすく説明していただけたので有益でしたよ。
 むしろ無駄な書き込みを阻止できてない自分が反省。
 ここの掲示板は本来、かなり長い書き込みでもOKな掲示板なので、ずらずら書いていただいても大丈夫です。


> 善悪っていうのは難しいですね。
> 一筋縄ではいかないです。
> それこそ、星の数程考え方があるように思います。

 そうですね。文化や神話によって、全然違いますね。
 共通のものなんかありえないと思いますよ。現代でもそうなんですが、昔、ボランティアをしている人と「堕胎は悪か否か」について話をしたことがあるのですが…

 ボランティアの人は、「どんな命も絶つことは許されない」と言い、私は「理由があるなら命を絶つことも許される」と言ったんです。

 堕胎を禁止されたために、望まざる子供を産むとしたら、母親も生まれてきた子も不幸ではないのか。出産は現代でさえ命がけの行為であるのに、望まざる危険に母親をさらさせる権利が、一体誰にあるというのか。

 これもキリスト教がらみで、厳格なカトリックは堕胎禁止なのだと思いますが…それはごく一部の教義でしょうからね。キリスト教が女性の権利を剥奪している、なんてことは言いません。

> こう言った「部分だけ」をとりあげて自分の都合の良い論理の証拠に仕立て上げるのが、知的水
> 準の低い詭弁家(大抵の場合その詭弁を正しいと信じ込んでいる節がある)に多い所謂「断章
> 主義」というやつですよね。

 そうですね。なんか、やたらと単語単語にツッコミ入れてくる人とか。木を見て森を見ず、なんてことにならないように、気をつけようと思います。


> 私個人の意見としてはこうです。
>
> 善:自己を損なわない行為
> 悪:自己を損なう行為

 つまり、人によって善いことは違う、っていうことですよね。
 私が「正しいことはオレが決める。オレがいいっつったことが善いことなんだヨ!」…とかよく言ってるのも、オレ様主義なわけじゃなく、自分がやって気持ちのいいことが自分にとっての「善」だと思ってるからなんですよぅ。

 ってのは半分冗談で(笑)、善ってのは、多分気持ちのいいものだと思うんですよ。そんで、人に言われたから、とか、人が何かしたから、ではなくて、自分がそうしたいと思うからやるようなこと。
 自発性を含むというべきでしょか。
 小便がバチだっていう話は、面白いですね^−^

投稿時間:2002/11/16(Sat) 16:12
投稿者名:Zeb
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タイトル:
Re: 善悪について
> それは、人を殺す事によって、神が決めるはずの人間の運命を人間の手で操作しようとする行
> 為、言い換えると神に背く行為だから。そんな説も成り立つと思います。
>
> 道徳なんか関係なく、善悪の規準が神様なんです。

そうですね。

道徳という言葉自体「道に従う徳」という意味があると思います。
(なんらかの天の摂理、非人格的なものが人間に及ぼす運命を意味している
のだと解釈していますが。)
老子の言う「道というべきは道にあらず。」という言葉を思い出しますね。


> 神様が殺せと言ったら、殺す事はこの上なく正しい事なんですね。
> この例としては旧約聖書の創世記にあるアブラハムが息子のイサクを神様に命ぜられるまま生
> 贄に捧げようとしたくだりからも伺えます。
>
> ただし、この部分のみを取上げて、キリスト教が野蛮な宗教だと言うつもりはありません。

「旧約」聖書を聖典にしているのはキリスト教徒だけではないし、
(ユダヤ人やムスリム)その出来事の解釈も様々ですが。

このことで供犠に関する神話学や哲学的な問題を出すのは、
別の問題提起につながるので避けたいのですが、ユダヤ人
も人身供儀を上古の時代では行っていたのだとか(ウェー
バーだったかな?)ある意味神話や伝説は「どうしてこういう
事をするようになったのか?」の説明ですから。

それから、動物を生け贄にするのはかなりの間ユダヤ人の間でも
続けられていたはずです。(キリスト教ではキリスト自身が
自らを生け贄にしたことで、そのことを止めさせたのだとか)
この辺うろ覚えですけどね。(ソロモンの神殿には生き血を流す
溝が掘られていたのだとか。)

エジプト人はこの点どうだったのかな?


> 例えば、何かをする事によって自己の尊厳が傷つけられたら、その行為は善くない。
> また、マルクス・アウレーリウスの自省録にある次の言葉は私の好きな言葉です。
>
> 蜂巣にとって有益でない事は、蜜蜂にとっても有益ではない。

この日本語の言葉を私の出来るかぎり主観を交えず、客観的に反転させると、「蜜蜂にとって有益でないことは、蜂巣にとって有益でないとは限らない。」という風にも解釈できますね。

投稿時間:2002/11/18(Mon) 23:45
投稿者名:グッチ
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タイトル:
Re^2: 善悪について
Zebさん、こんばんは。
原口です。

レスをありがとう御座います。

> > それは、人を殺す事によって、神が決めるはずの人間の運命を人間の手で操作しようとする行
> > 為、言い換えると神に背く行為だから。そんな説も成り立つと思います。
> >
> > 道徳なんか関係なく、善悪の規準が神様なんです。
>
> そうですね。
>
> 道徳という言葉自体「道に従う徳」という意味があると思います。
> (なんらかの天の摂理、非人格的なものが人間に及ぼす運命を意味している
> のだと解釈していますが。)
> 老子の言う「道というべきは道にあらず。」という言葉を思い出しますね。

私の主観的なイメージかもしれませんが、道教も含めた中国文化で言う道(タオ)
からはドライな印象を受けます。
日本の道の語感からは「耐え忍ぶ」と言う空気が感じられて結構ウェットな感じを
受けますね。

で、道徳です。
この文章を書いた時私の頭の中にあった道徳のイメージは、「倫理」に対する「道
徳」です。「ethic」に対する「moral」と言替えた方が分かり易いかもしれません。
つまり、ここで私が言おうとしている「道徳」「moral」とは、人間が社会を営む上で
お互いに守るべきルール。言わば横の関係です。お互いに不快な思いをしない為
にお互いに守るルール、言わば思いやりに根ざしたものですね。日本的な表現で
言うと人の道。
一方、「倫理」「ethec」は自分が信じる絶対的な存在との縦の関係。
人によって、それが「神」であったり「宇宙」であったり「君主」であったり「会社」であっ
たり「正義」であったり様々です。
これは、思いやりとは根本的に次元が違います。
場合によっては、相手を大いに不快にさせるかも知れない、社会に混乱を引起す
かもしれない。そう言った行動でも「その人の倫理」的には正しい場合があり得ます。

こういうと何ですが、宗教は個人的なファンタジーに過ぎないと思っています。
しかし、そのファンタジーは人が正しい道を歩む際に強力な武器になる。そういう存
在が宗教だと思っています。
これを前提に心理学的に考えてみると、人間は社会的な動物であるから、健全な
精神状態を保った人間が社会的に有害な「ファンタジー」に浸る事は考え難い。
従って、私の観点で言う「道徳」と「倫理」が大きく乖離する事は健全な状態では
極めて稀だと考えています。

うぅ、時間が無いのでこの部分はこの程度の大雑把な説明で私持っている「道徳」
のイメージの概略という事にさせて下さい。
実は、私は「道徳」と「倫理」の対照を表現しようとしていた訳です。


> > 神様が殺せと言ったら、殺す事はこの上なく正しい事なんですね。
> > この例としては旧約聖書の創世記にあるアブラハムが息子のイサクを神様に命ぜられるまま生
> > 贄に捧げようとしたくだりからも伺えます。
> >
> > ただし、この部分のみを取上げて、キリスト教が野蛮な宗教だと言うつもりはありません。
>
> 「旧約」聖書を聖典にしているのはキリスト教徒だけではないし、
> (ユダヤ人やムスリム)その出来事の解釈も様々ですが。
>
> このことで供犠に関する神話学や哲学的な問題を出すのは、
> 別の問題提起につながるので避けたいのですが、ユダヤ人
> も人身供儀を上古の時代では行っていたのだとか(ウェー
> バーだったかな?)ある意味神話や伝説は「どうしてこういう
> 事をするようになったのか?」の説明ですから。
>
> それから、動物を生け贄にするのはかなりの間ユダヤ人の間でも
> 続けられていたはずです。(キリスト教ではキリスト自身が
> 自らを生け贄にしたことで、そのことを止めさせたのだとか)
> この辺うろ覚えですけどね。(ソロモンの神殿には生き血を流す
> 溝が掘られていたのだとか。)

そうですね。
どちらかと言うと、私は旧約聖書はユダヤ教的な視点で読みたいと思っています。
このスレッドの趣旨とは違うので、理由は敢えて書きません。

人身御供についてですが、まず前提として宗教における神の性質と言うものに触れ
ます。
私の考えでは、宗教を信仰している人々の生活環境によって、その宗教の神の性
質が決まってきます。
傾向として、現代、中世より古代の方が生活環境が厳しいです。
従って、古代の宗教の神々は比較的人間に厳しく、一見理不尽な存在として描か
れています。生活環境が厳しく、自然の災害が理不尽に襲ってくれば、神の存在も
そのように描かれるのは当然の事だと考えています。
従って、神話と歴史がリンクするアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ・・・モーセの物語で
描かれた神はその時代にとって、大きなリアリティと宗教的な力を備えた厳しく偉大な
神であったと思われます。
そして、その宗教を厳しい環境と境遇にさらされ続けたヘブライ人に受け継がれてきた
のは頷けます。厳しい環境で生活する人間は、厳しい神でなければリアリティを感じら
れないのです。

そうすると、古代に於いて生活環境が厳しい時代には、神も厳しく時に理不尽に見え
る存在として描かれていた事が創造され、それは神話を調べれば実証されます。
そして、その様な厳しい時代と環境で、厳しい神に人身御供を捧げる事はそれ程不自
然では無いと思われます。

ここで神話に触れますと、ギリシア神話では悪意が無くても神の気に入らない事をしたら
厳罰に処されます。しかし、ローマの時代になると次第に神話にロマンスの要素が付加
され、野蛮な要素が減っていきます。
一番顕著なのがクロノスですね。
ギリシア神話で、ゼウスの父親のクロノスは子供を次々と食べてしまった神ですが、このク
ロノスと同一視される事の多いサトゥルヌスは名君として描かれています。

ここまで書いた事は状況証拠に過ぎません。
しかし、以上の理由で私は古代の厳しい環境のもとでは、人身御供もあり得たと考えてい
ます。

> エジプト人はこの点どうだったのかな?

以上の点から、エジプトでも人身御供はあり得たとは思うんですが・・・。
旧約聖書やギリシア神話に人身御供の記述はありますが、エジプト神話には無いん
ですよね。
ピラミッドを作ったのも奴隷じゃ無いみたいだし・・・。
結構平和的な国家・・・いや、ヒエログリフで外国人を表現するのに縛られた男の形を
使うのが平和的なのか・・・う〜ん、悩みます。

> > 例えば、何かをする事によって自己の尊厳が傷つけられたら、その行為は善くない。
> > また、マルクス・アウレーリウスの自省録にある次の言葉は私の好きな言葉です。
> >
> > 蜂巣にとって有益でない事は、蜜蜂にとっても有益ではない。
>
> この日本語の言葉を私の出来るかぎり主観を交えず、客観的に反転させると、「蜜蜂にとって有益でないことは、蜂巣にとって有益でないとは限らない。」という風にも解釈できますね。

そうですね。
・・・すんません、力尽きました。
短いコメントですみません。

投稿時間:2002/11/19(Tue) 20:52
投稿者名:Zeb
Eメール:
URL :
タイトル:
ギリシアとローマ
Zebです。

> > 道徳という言葉自体「道に従う徳」という意味があると思います。
> > (なんらかの天の摂理、非人格的なものが人間に及ぼす運命を意味している
> > のだと解釈していますが。)
> > 老子の言う「道というべきは道にあらず。」という言葉を思い出しますね。
>
> 私の主観的なイメージかもしれませんが、道教も含めた中国文化で言う道(タオ)
> からはドライな印象を受けます。
> 日本の道の語感からは「耐え忍ぶ」と言う空気が感じられて結構ウェットな感じを
> 受けますね。

それはもう。後の代の儒教で言う「道徳」と老子の「道徳」という
言葉自体にもかなり開きがありますしね。

> で、道徳です。
> この文章を書いた時私の頭の中にあった道徳のイメージは、「倫理」に対する「道
> 徳」です。「ethic」に対する「moral」と言替えた方が分かり易いかもしれません。
> つまり、ここで私が言おうとしている「道徳」「moral」とは、人間が社会を営む上で
> お互いに守るべきルール。言わば横の関係です。お互いに不快な思いをしない為
> にお互いに守るルール、言わば思いやりに根ざしたものですね。日本的な表現で
> 言うと人の道。
> 一方、「倫理」「ethec」は自分が信じる絶対的な存在との縦の関係。
> 人によって、それが「神」であったり「宇宙」であったり「君主」であったり「会社」であっ
> たり「正義」であったり様々です。
> これは、思いやりとは根本的に次元が違います。
> 場合によっては、相手を大いに不快にさせるかも知れない、社会に混乱を引起す
> かもしれない。そう言った行動でも「その人の倫理」的には正しい場合があり得ます。
>

> これを前提に心理学的に考えてみると、人間は社会的な動物であるから、健全な
> 精神状態を保った人間が社会的に有害な「ファンタジー」に浸る事は考え難い。
> 従って、私の観点で言う「道徳」と「倫理」が大きく乖離する事は健全な状態では
> 極めて稀だと考えています。

なるほど…でも、貴方の言葉を使わせてもらって恐縮ですが、
「不健全な」社会というのもありうると思いますが。
ジャック・ロンドンの「どん底の人々」とか、
オーウェルの「1984年」とか。
貧困とか暴力とか圧制とか不寛容とか。
どの社会にも触れられたくないものとかアウトローとかがいるのは
理の当然ですけど。

ちなみに語源からすると:
ethic:
ラテン語←ギリシャ語Ithiks (Iths習慣+-ikos-IC=習慣の)
moral:
ラテン語mRrDlis (mRs習慣+-AL=習慣に関する)

(Progressive English-Japanese Dictionary, Third edition Shogakukan 1980,1987,1998/プログレッシブ英和中辞典 第3版)


<<ここで神話に触れますと、ギリシア神話では悪意が無くても神の気に入らない事をしたら
厳罰に処されます。しかし、ローマの時代になると次第に神話にロマンスの要素が付加
され、野蛮な要素が減っていきます。
>>

このギリシア神話の解釈については少々異論がありますが、(ローマ神話
は元々はギリシア神話とは関係があまり無いと思いますし。)論題からそれるので。

> 一番顕著なのがクロノスですね。
> ギリシア神話で、ゼウスの父親のクロノスは子供を次々と食べてしまった神ですが、このク
> ロノスと同一視される事の多いサトゥルヌスは名君として描かれています。
>
そうですね。と言ってもむしろ全く異なる神性を統合したのなら話は別ですけれど。

> しかし、以上の理由で私は古代の厳しい環境のもとでは、人身御供もあり得たと考えてい
> ます。

社会学的な話と、神話的、心理的、宗教的な次元ではいろいろ
話が違ってくるでしょうが…基本的なところでは同意します。

> > > 例えば、何かをする事によって自己の尊厳が傷つけられたら、その行為は善くない。
> > > また、マルクス・アウレーリウスの自省録にある次の言葉は私の好きな言葉です。
> > >

マルクス・アウレリウス:
ストア派の哲学者でしたね。
http://www1.sphere.ne.jp/rthunder/master/discovery1st/hellenic2.htm
http://www.ne.jp/asahi/village/good/stoa.html
http://www8.plala.or.jp/StudiaPatristica/philosophia12.htm

あまり良くストア派については知りませんが、
ゼノンが足を折った時にそのまま自殺してしまったとか、
あとはローマの貴族達、セネカとかが手首の血管を切って
自殺したこととか。自殺が得意なところは日本人に
ある意味通ずるところがあるかも(笑)。
(我ながらすごく無責任な意見だ。)

投稿時間:2002/11/24(Sun) 01:44
投稿者名:グッチ
Eメール:
URL :
タイトル:
Re: ギリシアとローマ
Zebさん、こんばんは。
グッチです。

> あまり良くストア派については知りませんが、
> ゼノンが足を折った時にそのまま自殺してしまったとか、
> あとはローマの貴族達、セネカとかが手首の血管を切って
> 自殺したこととか。自殺が得意なところは日本人に
> ある意味通ずるところがあるかも(笑)。
> (我ながらすごく無責任な意見だ。)

これは、私にとっては新しい発見です。
考えてみればギリシア神話でも自殺が結構ありますね。
私は日本人だから、あまり気にも留めなかったですが、西欧人から
見ればかなりインパクトがある事でしょうね。
キリスト教の聖典には殉職はあっても、自殺は無いですよね。
仏教ではありそうで無い。
神道でも・・・無いですよね。

日本で自殺が流行りだした(?)のはやはり武家社会が台頭して
きてからのような気がします。
ここで注目すべき武家社会の特徴は、「伝統」と「名誉」の重視で
しょう。「伝統」を重視すると言う事は、何かトラブルが生じた場合は
周りを変えるのではなく、自分が周りに適応するという傾向を生みま
す。自分のやりたいやり方では無く、伝統に従ったやり方を強制され
るという事です。これは、弱者の絶望に基づく自殺の動機になります。
また、「名誉」を重んじるという事は、「名誉」の為であれば、結果とし
て利益を生まない行動を取る事を意味しています。これは、名誉を
重視する武将の切腹などを生みました。

かくして、武家社会の精神が文化に浸透した日本には自殺者が多
く西洋人を気味悪がらさせた。
古代ギリシャや古代ローマの人々の中にも同じような人々がいたのか
と想像すると面白いです。
それでは。

投稿時間:2002/11/16(Sat) 14:47
投稿者名:Zeb
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Re: まったりいきたいですねー
>  ここの掲示板的には、まったりとした語らいが欲しいんですよね。

ご期待に沿えるか不安です(笑)。

>
>  あの、つい答えちゃって良いですか(笑) 
>  マアトの羽根は、ダチョウの羽根だそうです。そんであれは、もとは大気の神シュウの印でもあります。大気→軽い 罪→重い、つうことで、羽根より心臓が重かったらアウト♪
>
>  で、肝心の死者の審判なんですけど、「ピラミッド・テキスト」には出てきてなかったような気がします。登場するのは「死者の書」。
>
>  ピラミッド・テキストは王の復活を描いたものなので、殺されたオシリスさんが蘇るまでの話を描いてますが、死者の書は一般市民が死者の楽園で蘇る話を描いてるので、楽園に至るまでの審判の場面が出てくる、と。

おお、ありがとうございます。

>
>  ぶっちゃけ、王様は審判なんか受けないですよ(笑)
>  王様は正しいに決まってンだよ、なんせ神意を代行してんだからさ、神様だって貢物と神殿で懐柔さぁ、ってな具合。

というか、道徳自体、性悪説的な考え方で言うと権力者の道具であるような気もします。

>
>  そういや、中国では、天命によって王権を滅ぼすことがOKなんでしたよね。(「隋唐演義」とか)
>  古代エジプトは基本的に駄目らしいです。古代エジプトの秩序というのは、王は王の、役人は役人の、市民は市民の役目を果たし、それぞれに相応しい生き方をすることなんだという哲学書みたいなパピルス文書が…。

どうでしょう。エジプトでも統一以前の黎明期とか内乱時代では下克上
の時代だったのでは?
http://www5b.biglobe.ne.jp/~moonover/bekkan/chorono/index-reimei.htm
http://www5b.biglobe.ne.jp/~moonover/bekkan/chorono/topics8.htm

>  しかしそういう神託に頼るのは限られた時だけだったようで、裁判はフツウにやっていたようです。
>  離婚裁判の経緯と結果だとか、相続問題だとか、エジプトの裁判記録パピルスはかなり残ってます。
>
>  さすがに復讐法は無かったみたいですね。むしろ浮気したときの罰則がかなりシビアなんですが…耳と鼻そぎ落とすとか…。
>  エジプト人はどちらかというと「復讐は神様に任せる。」という感じでしょうかね。

ホッブス的な考え方でいくと、「万人の万人に対する戦争状態」
から、富の不正配分から上下関係が生まれ、ヤクザ的な均衡の時代
から、宗教を利用した上位権力の平和(搾取)という社会発展図
になると思いますが。
http://members.jcom.home.ne.jp/lionsboy/hattori/seiyorin.htm

なんというか、復讐法と言うのは、古代のグループ同士の抗争の
エスカレートを防ぐために、(目を潰したら殺す、ではなく、
目を潰したら潰し返すだけという)ある程度権力の分散を容認
した上での考え方だと思います。前掲のハムラビ法典などでも。

http://homepage2.nifty.com/jinichi/thesis2.html

(つまり、あるグループ同士で殺し合いをしているにしても、
その殺しの数が一定期間で保たれているかぎり、それなりの
均衡は保たれていると言った考えなのかな。遊牧民とかの
間では何十世代もの間で殺し合いが続くことがあるとか。)


> > 人間の知性を重んじるかそうでないかも、人間を信頼しているか
> > そうでないかに拠るような気がします。人間を信頼しなければ
> > 余計宗教に縋るような・・・・暗いものの見方ですけど。
>
>  そうですねえ。人が人の可能性を信じるのは実に大切なことだと思いますよ。神様より近いところにいますしね人間は。
>
>  「科学が発展すると世界が滅びる」とか言ってる人たちも、もしかすると人間信じられていないのかもしれませんねぇ。
>  人間の知性が高まると世界が滅びるって、どないやねん(笑)

南北世界の貧富の差の拡大やら、核問題やら、南の人口爆発やら、
科学の悪用の歴史のことを考えると、楽観的にはなれませんけれど。
(人間性自体変わらないかぎり、昔のままの方がいいんじゃないかねえ。)

投稿時間:2002/11/16(Sat) 23:56
投稿者名:岡沢 秋
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タイトル:
古代世界の秩序
 そういや昔、Zebさんとは激しい語らいをしましたねぇ(笑)
 まーアレです。あの語らいは、かなりネタを得られたので自分的には良かったのではないかと。
 反論しようとして調べてたら、いっこコンテンツ出来たし^^;


> どうでしょう。エジプトでも統一以前の黎明期とか内乱時代では下克上
> の時代だったのでは?

 そうです。しかし、そういった時代は「秩序が失われた、好ましくない時代」として、否定されています。
 その時代に残されたと思われる文書が、逆説的に、「それまでの時代の秩序」を語ってくれます。
 「イプエルの訓戒」や「メリカーラー王の教訓」など、道徳書はかなりの分量あるので、ここでは引用できませんが、「筑摩世界文学大系1 古代オリエント集」に丁寧に完訳されています。(絶版なので図書館にしかありませんが)

 役人の心得なんかも出てきます。「お前はお前の家でマアトを語れ、さすれば人々はお前を尊敬しよう」とか。

 「エジプト神話ストーリー」のほうに突っ込んである「ウェストカー・パピルスの物語」からも、王朝は本来、永久に続くべきものと考えられていたのではないか? という推測ができます。

 第4王朝から第5王朝へ移り変わるときのことを描いた神話なのですが、「人間によって王権が倒れたわけじゃないよ。神様が王権を譲り渡してくれたんだよ、ウン。神様の仰ることだから仕方ないんだよね」という感じで、正当な理由をつけようとして、後世に作られたものだとされています。

 人間の手で王朝が移り変わるとなると、王家の血筋の神聖さが失われ、「平民でも王になれる」ということになってしまいますものね。まぁ…実は混乱の時代には平民から王になった人もいたりしたわけなんですが…そこはそれ、あとで「実はあの人のお父さんは神様だったんだよ?!」とかなんとか、神話を偽造する方向で(笑)


> なんというか、復讐法と言うのは、古代のグループ同士の抗争の
> エスカレートを防ぐために、(目を潰したら殺す、ではなく、
> 目を潰したら潰し返すだけという)ある程度権力の分散を容認
> した上での考え方だと思います。
> (つまり、あるグループ同士で殺し合いをしているにしても、
> その殺しの数が一定期間で保たれているかぎり、それなりの
> 均衡は保たれていると言った考えなのかな。)


 ずっと疑問だったんですけど、目ェつぶされても死なないもんないでしょうか(笑)

 法律に関してはオリエントが先行してたわけですが、私は意外に、古代北欧人ほど法律をうまく使った人々はいないのではないかと思います。
 彼には共通した王はいなかった(オーラーヴの時代までは)、民会という自分たちで作った議会があって、皆に選ばれた代表者が議長を務めた。
 そして人殺しに対しては、殺しではなく、「動産」か「追放」で、代償を求められた。もちろんこの協定が破られることもあったわけですが、その時は破った人々も追放されていますし。
 王の権威ではなく集団の力で法律を維持していた人々って、実はあまりいないのではないか? などと思うのですが。

 復讐法では暴力に対し暴力で報いているのですが、結局のところ、暴力はどこまでいっても暴力しか生み出さないのではないかと…(特にそれが、小さな集団であれば)

 や、法律はマジで分らず、ゲルマン法も最近ハマってるので出してみただけなんですが、結局のところ、「人間が集団というものをなくしたら、どんな法律も実は無意味なのではないか」と思うのですよ。

 何するにしても「個人の自由」だと言ってしまえば、正義も倫理も無関係。「他人に迷惑かけるな」という理屈が出てきてはじめて、個人の自由より尊厳されるものが生まれる。
 集団とは、そういうものだと思うんですよね…
 最近の若者は自分ひとりで生きてる気の人が多いですけども…<お前もだ
 

投稿時間:2002/11/19(Tue) 20:17
投稿者名:Zeb
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タイトル:
Re: 古代世界の秩序

>  王の権威ではなく集団の力で法律を維持していた人々って、実はあまりいないのではないか? などと思うのですが。
>
ええと、これはアイスランドの話ですよね。

サガとかの状況は少々美化されていて、実情は単に小領主たちの
内輪もめが絶え間なく続いていたということも考えられます(笑)。
(単に争いが充分に大規模になるほど豊かでなかったとか。)
スノッリの非業の死の話は、私にはペロポネソス戦争のアテネの
ことを思い起こさせました。

結局ノルウェーに服属してしまうのもスパルタに負けてしまう
アテネの運命のことを考えましたしね。

投稿時間:2002/11/19(Tue) 23:23
投稿者名:岡沢 秋
Eメール:
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タイトル:
集団の秩序を守るための条件
 古代世界の秩序から古代世界の法律へと変わってきましたね。ううむ。ぢつは法律嫌いだったりするのですが(笑) 言葉がむつかしい。
 つうわけで、微妙に法律そのものの内容からはズレるのですが。

> >  王の権威ではなく集団の力で法律を維持していた人々って、実はあまりいないのではないか? などと思うのですが。
> >
> ええと、これはアイスランドの話ですよね。

 いや、スカンディナアヴィア半島も、王政になる以前は、おそらく議会制だったと思うんですが(少数民族が並立していた状態)、「ベーオウルフ」などの記述を見るに、かなり早くから王という権威が出てきているようですね…
 しかし、王が絶対だったかと言うと、そうでもない。王が法律を決めていたわけではない、長老などの権威が法律にたずさわっていた、という点においては、王も集団の中の一人に過ぎなかったと考えてよいのではないかと。


> サガとかの状況は少々美化されていて、実情は単に小領主たちの
> 内輪もめが絶え間なく続いていたということも考えられます(笑)。
> (単に争いが充分に大規模になるほど豊かでなかったとか。)

 いやー、その点ゲルマン民族はかなり徹底してますよ。血気さかんなヤツらなんで、内輪もめ=流血沙汰だし。
 そして、サガというのは、伝説的サガをのぞいて、「争いや裁判の結果を、出来るだけ忠実に残す」ということが目的だったと考えられるんですよ。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~moonover/2goukan/north-e/mine7.htm

↑ここでもチョコっと書きましたが…。

 つい最近出版された心理学関係の本で「世界がもし100人の村だったら」というものがあるんですが、この本では、「100人程度の規模の集団だったら、秩序を維持するために権力は必要ない。人々自身が、秩序を乱すものを追放するだけで秩序は守られる」ということが書いてあります。

 現代の世界は広く大きいですが、古代世界の社会というのは、限られた範囲のものだったでしょう。
 「あの人は信用ならない」「あの人はすぐれた人物だ」などの個人情報を共有することによって、社会の秩序が守られる。
 そして、この個人情報こそ、サガによって口伝えに広められていたものではないかと思うんです。

 言ってみれば、サガは「娯楽」であるとともに、「個人情報」であり、秩序を守るための「ニュース速報」でもある…
 そう考えると、古代ゲルマン人が名誉や噂をひどく気にしていたこと、権力者が詩人を雇い、広報活動をさせていたことなども、理解しやすいのではないかと。

 いっぺん落ちた評判って、なかなか元には戻らんですし。悪い評判が立って名前が残るってことは、事実上、家族全体が集団から阻害されることを意味していたんじゃないんでしょうか。

 …と、話がちょい長くなりましたが、集団が小さい時は法律は必要ない、だが、デカくなればなるほど、秩序を守るには別の方法が必要になってくるんだ、ってことです。
 それこそ、社会構造によるんでしょうね。

投稿時間:2002/11/19(Tue) 20:23
投稿者名:Zeb
Eメール:
URL :
タイトル:
Re:古代の法概念
以下は他のメーリングリストからの、法学部の方の投稿です。
転載許可を取っていませんので、もし抗議もしくは不都合が
あった場合、消去します。
ご参考になればと思ったので:

<<紛争の裁判的解決=敗訴当事者に有無を言わせずに最終的に紛争を解決する、とい
うのが権力者の基本的サービスである、という見解には賛成します。Nさんの仰
るように紛争が存在しなければ裁判の需要はない、というのはその通りなのですが、
紛争は社会内に不可避的に発生するというのが法学部的発想の前提でして、、

冒頭で裁判=権力者の基本的サービスと書きましたが、別の言い方をすると裁判を
するというのは裁判管轄権という権力の行使なわけで、権力を維持・確保・主張する
行為なわけです。逆に裁判しようとしてさせてもらえなかった権力主体から見れば、
権力を奪われた、失ったということになります(馴染みの例では明治維新期の不平等
条約下の治外法権がありますし、より身近な例として犯罪を犯した(とされる)米兵に
対する裁判の問題はマスコミでも採り上げられます)。

つまり、「王様(のような権力者)は訴訟をたくさん持ち込まれて大変だ」という
イメージよりは、権力者のほうが自らの権力を維持・拡大するために、積極的に訴訟
を取り上げていく、というイメージのほうが適切だと思います。そして氏族制を背景
とする分権的・重層的な国制があるのだとすれば、各権力主体は裁判管轄権をできる
だけ広く行使しようとして闘争している、というイメージが描けそうです(中世ヨー
ロッパの教会裁判所と世俗裁判所の対立が一番見えやすい例でしょう)。もっと言え
ば、ある権力主体が終局的に裁判したにも関わらず、別の主体が(権力の拡大を狙っ
て)(事実上の)上訴・再審を受け付ける、ということもありそうです。

前近代においては a priori に「法」が存在するのではなく、実際に発生した紛争
を何らかの手段で解決しようとした際に、それを権力持つ者による裁定=裁判の利用
がまずあって、その紛争解決事例の蓄積によって「法」が形成されていきました。事
前にルールがあったとしてもそれは主として裁判手続に関わるものでした(「手続法
の形成が実体法の形成に先行した」などと言われることもあります)。>>

全般的にいって西洋法学は性悪説で考えられているのだと思いますが:

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