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投稿時間:2002/12/15(Sun) 00:36
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ニーべルンゲンの歌
一度だけ〈一晩)Wormsに泊まりました。 ブルグンドの王宮の跡に今の大聖堂が建っているのでは(?)なかなか気に入りました。いわゆる、日本のツアールートからは外れているので静かな町と思いました。ところで、中世高地ドイツ語のニーベルンゲンの原本の最後の単語が”Lied"ではなく”Not"〈ノート)になっているものを、私は持っております。したがって、本の題名も”Der Nibelunge Not"となっております。”o"の上に”^”の長音記号が付いております。”Not"は”災い”と訳しておられる方も居られ、゛ニベルンゲンの災い”となり、詩の内容にピッタリではないでしょうか?
私が持っているのは、1942年に福本書院から出版されたもので、恐らく゛海賊版”ではないかと思っております。

投稿時間:2002/12/15(Sun) 01:33
投稿者名:岡沢 秋
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「災い」のほう
>一度だけ〈一晩)Wormsに泊まりました。

 おー、いいなー! ってことはもしかしか、川辺のハーゲン兄さんにお会いになられたんですか? 立派でしたか?(どきどき)

>ブルグンドの王宮の跡に今の大聖堂が建っているのでは(?)なかなか気に入りました。

あ、あの大聖堂は王宮の跡に建ってるんですか。それは知りませんでしたー。ということは、その場所の下であれやこれやがあったわけですね。
 行きてー!>▽<

 確かに観光ルートからは離れてますが、マインツが近いので交通の便はそれほど悪くなさそうですよね。
 古城街道とか行ってる場合じゃないっスよ。ウォルムスからパッサウへの道を辿らなきゃ。

>ところで、中世高地ドイツ語のニーベルンゲンの原本の最後の単語が”Lied"ではなく”Not"〈ノート)になっているものを、私は持っております。

岩波文庫の和訳の底本も、もとは「災い」のほうだそうです。最も古いB写本は「ノート」と締めくくっているとか。
 「リエト」になったのは単なる綴りミスだとしている説も見かけましたが、どっちかっていうと、詩吟で語り継ぐうちにシメの部分を変更したんじゃないかという気もします・・・。

> 私が持っているのは、1942年に福本書院から出版されたもので、恐らく゛海賊版”ではないかと思っております。

 めちゃめちゃ古いですね(笑
 C写本のオンラインテキストは以前、ここの掲示板で紹介されたんですが、B写本のは無いみたいで、見たことないんですよ。
 和訳と並べて読めたら、ドイツ語わからないなりに何か楽しそうだなあと思いつつ。

 ところで、脇さんはニベ歌に詳しそうなので、お伺いしたいんですが・・・
 エッツェル王の居城「エッツェルンブルク」の位置を、ブダペストとする説とエステルゴムとする説があります。
 エステルゴム説の根拠は分るのですが、ブダペストとする説の根拠と信憑性が、どこを調べても出てきません。
 何かご存知ではないですか?
 (と、誰にでも聞いて回ってます^^;)

投稿時間:2002/12/15(Sun) 16:50
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Re: 「災い」のほう
EtzelburgEtzelburg [G.]; Etzelnburc [MHG];
Etzel's capital. Later it came to be identified with the old German-speaking quarter of Budapest (right bank of Danube) called Buda (= Ofen [Ger.] meaning"oven"). Buda(Ofen [G.]) and Óbuda (Alt-Ofen[G.]) on the right bank and Pest on the left bank were merged to form Budapest in 1873. Others theorize Etzelburg is none other than Gran(Estergom). In Ms. C.,"Etzeln bourg" (Etzel's citadel) occurs instead of this being used as the proper name of the city.


(22:1379)

--------------------------------------------------------------------------------


GranGran [G.]; Gran [MHG];
Now Esztergom, on the right bank of the Danube opposite the influx of the Gran, 24 mi. northwest of Budapest. It once used to be a royal free city. Here, Swemmel and Werbel, the gleemen who delivered the invitation to the Burgonds, were both received by Etzel. It is curious to note that in the Thidrekssaga, the place of the decisive battled is called"Gransport (Gronsport)" — perhaps the"port of Gran" — although in MHG poetry the battle is set in Raben (usu. interpretted to be the port town of Ravenna, Italy).


(24:1497)
> >一度だけ〈一晩)Wormsに泊まりました。
>
>  おー、いいなー! ってことはもしかしか、川辺のハーゲン兄さんにお会いになられたんですか? 立派でしたか?(どきどき)
>
Rhein河畔までは、くたびれてしまって、残念ながら行ってません。Wormの旧市街地は狭いので、2日で充分見られると思います。自転車を借りればバッチリでしょう。

>
>  確かに観光ルートからは離れてますが、マインツが近いので交通の便はそれほど悪くなさそうですよね。
>  古城街道とか行ってる場合じゃないっスよ。ウォルムスからパッサウへの道を辿らなきゃ。

Wormsから、列車1本でFrankfurt A/Mへ出られます。
>
> >ところで、中世高地ドイツ語のニーベルンゲンの原本の最後の単語が”Lied"ではなく”Not"〈ノート)になっているものを、私は持っております。
>

> > 私が持っているのは、1942年に福本書院から出版されたもので、恐らく゛海賊版”ではないかと思っております。
>
Mittelhochdeutschは修士課程ぐらいでやるのが順当なコースと思います。私はそこまで行っておりませんので、現代ドイツ語との比較で暗号解読状態です。独和もしょっちゅう見なければ。
  
>
>  ところで、脇さんはニベ歌に詳しそうなので、お伺いしたいんですが・・・
>  エッツェル王の居城「エッツェルンブルク」の位置を、ブダペストとする説とエステルゴムとする説があります。
>  エステルゴム説の根拠は分るのですが、ブダペストとする説の根拠と信憑性が、どこを調べても出てきません。
>  何かご存知ではないですか?
>  (と、誰にでも聞いて回ってます^^;)


投稿の最初にコピーした文章では、BudapestをEtzelburgとしています.しかし根拠は明確に書かれていませんね。
捜せば、他のサイトもあると思います。面白そうな捜査になるかもしれませんね。取り敢えずご連絡まで。

投稿時間:2002/12/15(Sun) 22:29
投稿者名:岡沢 秋
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微妙に読めない(笑)
お早い反応ありがとうございますー。
で、無知なもんで今ひとつ分かってないんですが、

> EtzelburgEtzelburg [G.]; Etzelnburc [MHG];

この、「G」「MHG」って、何の略でしたっけ…作品のタイトルの略ですよね? どっちかがシドレクス・サガとか?
すいません、忘れてます。


で、妙に気になったのが上半分の書き込みのココ↓
> Etzel's capital.

C写本では「ブルク」という単語が独立してるんですが、AとBでは繋がってたってことですか?
「ブルク」っていうのは、砦という意味で、城壁内の町もふくめた地域のことだと思ってたのですが(Etzel's citadel)、C写本以外では「城」に、なってるんでしょうか。

英語力皆無なので読めてるのかどうかイマイチ自信ないんですけど。

お詳しそうな方が来てくださって大助かりですー(笑)
何か情報ありましたら是非! また教えてやってください。

投稿時間:2002/12/15(Sun) 23:38
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Re: 微妙に読めない(笑)
> お早い反応ありがとうございますー。
> で、無知なもんで今ひとつ分かってないんですが、
>
> > EtzelburgEtzelburg [G.]; Etzelnburc [MHG];
>
> この、「G」「MHG」って、何の略でしたっけ…作品のタイトルの略ですよね? どっちかがシドレクス・サガとか?
> すいません、忘れてます。
>
引用した文が英語なので、[G]はGerman=現代ドイツ語,[MHG]
葉、Middle High German=中古高地ドイツ語 のことです。

> で、妙に気になったのが上半分の書き込みのココ↓
> > Etzel's capital.

Etzelの都の意味でしょう。
>
> C写本では「ブルク」という単語が独立してるんですが、AとBでは繋がってたってことですか?
> 「ブルク」っていうのは、砦という意味で、城壁内の町もふくめた地域のことだと思ってたのですが(Etzel's citadel)、C写本以外では「城」に、なってるんでしょうか。

”citadel”は英語で,Burgは現代ドイツ語,bourgは中古高地ドイツ語です。

Etzeln bourg=Etzel's citadel が、都市の固有名詞の代りに使われている,ということのようです。意味はエッツェルの城とか、エッツェルの都市になるでしょう。
Etzelburgは町/都市の固有名でエッツェルブルクと読みます。
 
 

投稿時間:2002/12/16(Mon) 11:37
投稿者名:きよ
Eメール:kyamazak@ix.netcom.com
URL :http://home.ix.netcom.com/~kyamazak/index.html
タイトル:
エッツェルブルク=ブダの根拠
おっと、ふたたびこの話題の蒸し返しですか?

脇さんの引用された文の和訳なら、
http://home.ix.netcom.com/~kyamazak/myth/nibelungen/nibmap-frame-j.htm 
..って、オノレのサイトやんけ〜(笑)。

英訳http://sunsite.berkeley.edu/OMACL/Nibelungenlied/adventure22.html の脚注には、

>"Etzelburg" は、後にハンガリーの伝説の影響によってブタペストの>旧街地(ドイツ語で「オフェン」)と同一視されるようになったが、
> G. Heinrich の研究が示すとおり、古い中期高地ドイツ語の叙事詩
>では、どの場所かは特定されていない。(参照:Bleyer, PB. Belt. >xxxi 433 and 506.)
> エッツェルブルクの名の用例は、15世紀の文献にまで残っている。

とあります。

また、http://www.ssees.ac.uk/prospect/rady2.htm
では、ブダ=エッツェルブルク説について根拠が出てましたので、以下、抜粋します:

 アッティラは4世紀に一代かぎりの帝国をつくりました。そののち、9世紀末にパンノニアにハンガリー人の移入がありました。この頃、この移入民族は、トルコ系言語をあやつる「オノグル族」Onogur という遊牧民族の階級が覇権を握っていました。その「オノグル」がなまって「ハンガリー」となったのだといいます。
 かれらは、フン族と同じ草原(ステップ)の民族でもありましたし、「ハンガリー」と「フン」が似ていましたから、自然と二つは同一視されました。ドイツの歴史書などで、しばしば「ハンガリー人すなわちフン族」(Hungari id est Huni)などの記述がみうけられます。またハンガリー人がパンノニアを制したことでさらに、「フン国 Hunnenland」と 「ハンガリー国 Ungerland」の名称が同化するようになりました。
 1060年代にハンガリーの王太后が、オットー公(ノルドハイムののオットー;バイエルン公爵)にわたした黄金の剣(ウィーン美術史館所蔵)に、それがアティラの剣であったなどという迷信がまつわりついたのもそのためです。

 ハンガリー最古の史書、自称アノニュムス Anonymus 著の「Gesta Hungarorum(ハンガリー人の事蹟)」(1200年頃)は、ハンガリー人の祖を、スキュタイ人で、ヤペテの子マゴグ[『創世記』]の後裔だとする。マジャール人の名はこの「マゴグ」の名からとられてつけられたという。さらには、アッティラもまたヤペテやマゴグの子孫で、パンノニアからローマ人を追放して建国し、王都ブダを築いたが、「これは、現今ハンガリーの言葉でブダヴァル Budavar と、そしてドイツ人によりエキルブルク Ecilburg と呼ばれる」場所であるとしている。何年も後、アッティラ王家の血をひくアルムス Almus なる人物が、聞きしに及ぶパンノニアをめがけてハンガリーの民を率いるが、志なかばでしんでしまう。その遺志をつぐ息子アルパド公 Arpad が、ついにパンノニア(ハンガリー)入りを果たし、エキルブルクを征服する。その都市の石造の建物に目を見張り、アプラド公は、アッティラの王宮にみずからをすえて連日、宴をひらいて勝利を祝った。

 この自称アノニュムスの資料は、フン族と同盟関係にあった東ゴートの資料が主であったため、アティラに関してはその良い面しか知らなかったようだ。ところが、だんだん被害者側のフランス・イタリアの資料がハンガリーにも浸透してきて、アティラの悪逆非道ぶりも知れるようになる。
 
 そこで、1280年代に、ケザのシモン(Simon of Keza/Kezai)が著した「Gesta Hungarorum(ハンガリー人の事蹟)」では、アティラの家系は途絶えてしまって、アルムスやアルパド公は、きっぱりと血のつながりは無いとされている。 

投稿時間:2002/12/16(Mon) 19:20
投稿者名:岡沢 秋
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タイトル:
って前には書いてなかったし。
> おっと、ふたたびこの話題の蒸し返しですか?

いやー、前に結論出ないまま結局尻切れトンボになってたもんで。
前回は詳しい根拠が見つからず「いつのまにかそう言われるようになった」で、終わっていましたからね(笑)

んで、今回きよさんの持ってきてくださった資料をまとめると、プダペスト=エッツェルンブルグ説の根拠は、

・アッティラとは直接関係ないが、アッティラ率いるフン族と同じ騎馬民族であるオノグル族が、ハンガリーを建国した。(そのためハンガリーの首都がフン族の国の首都と同一視された)

・ハンガリー最古の歴史書に、王都ブダ(ブダペスト)が、「ブダヴァル Budavar と、そしてドイツ人によりエキルブルク Ecilburg と呼ばれる」とあり、エッツェルンブルクと似ていた。

…と、いう二つだってことですか?
↑何か間違ってたら指摘してください。

この説では、1497節に出てくる「グラン」という地名は無視されているんですね。(もしくは別の城と解されている?)

そして、伝説の影響で後世にそう解されるようになった、ということが分かっているのであれば、当時は「ブダペスト=エッツェル王の都」という概念は無かったということではないかと思うのですが、どうでしょう。

この説の源のひとつになっている「Gesta Hungarorum(ハンガリー人の事蹟)」が書かれたのが1200ごろとすれば、「ニーベルンゲンの歌」成立時期と重なってしまい、微妙ですね…。
編纂した詩人はブダを築いたのがアッティラだという話は知らないままだった可能性が高そうですし。

で、次に気になるのがグランという地名は当時から(エステルゴムに)あったのかどうか。ですね。^^;

投稿時間:2002/12/19(Thu) 10:04
投稿者名:きよ
Eメール:kyamazak@ix.netcom.com
URL :http://home.ix.netcom.com/~kyamazak/index.html
タイトル:
エステルゴム(グラン)/ブダ(エツェルブルク)補遺
> > おっと、ふたたびこの話題の蒸し返しですか?
>
> いやー、前に結論出ないまま結局尻切れトンボになってたもんで。
> 前回は詳しい根拠が見つからず「いつのまにかそう言われるようになった」で、終わっていましたからね(笑)
 ちょと言葉の選び方が悪かったですかね。話題ふたたび再燃、と言ったほうがよかったですか。

> ↑何か間違ってたら指摘してください。
 そうですね、あえて強調するとしたら、侵入を受けた側もハンガリーを本物のフン族と勘違いしたが、勘違いされた側も(それはみずからの素性にハクがつくという考えから)否定せず、むしろその勘違いをどんどん推し進めて奨励したんだということが書かれています。
 ところが、アッティラがけっこうヤバイ人物だとわかってきたんで、80年かそこら経った時点で史書に手直しをし始めたとのことです。

> ハンガリー最古の歴史書に、王都ブダ(ブダペスト)が、「ブダヴァル Budavar と、そしてドイツ人によりエキルブルク Ecilburg と呼ばれる」とあり、エッツェルンブルクと似ていた。
 エキルブルク と書きましたけれど、これは間違いで、"c"は、"e, i, a:, o:"の前では"ts"のように発音するので「エツィルブルク」です。だからほとんどエッツェル(ン)ブルクとは同じです。

> で、次に気になるのがグランという地名は当時から(エステルゴムに)あったのかどうか。ですね。^^;

 まず、ブダペストの歴史は古く、ローマはパンノニア州の属州化を前35年頃より手がけ、アクウィヌム(Aquinum)という町を設立しました。(のち下パンノニアの首邑となり、ハドリアヌス帝の紀元124年、
都市(ミュニキピウム)に昇格、セプティミウス・セウェルス帝 Septimius Severus の194年に植民地(コロニア)と認められます。
 そして452 年頃、アティラのひきいるフン族が、ブダペストを本拠地にしていたのは史実のようです。
(『ハンガリー人の事蹟』の写本では、拠点はドナウ西岸のシカンブリアと呼ぶが、これはアクウィヌム/ブダペストのことだと解釈されています。)

 エステルゴムが町としてひらけたのは、どうやら8世紀になってからのことです(Catholic Encyclopedia による)。
 シャルルマーニュがアヴァール族をこの地からおっぱらおうと、遠征しはじめたころにできたのでしょう。
 その後、前述したようにマジャール族のアルムス公・アルパード公が、侵入してきますが、ブダペストを占拠しました。かれらは、カロリング王朝に臣の礼をとり、この地に封ぜられる形式をとっていたので、公爵でしかありませんでした。
 960年に、このマジャール系のゲーザ Géza 大公が宮をエステルゴムに転居させました。その子(965-975頃生)は、幼名をヴァイクVajik(チュルク言語で「勇士、主君」)といいましたが、、
これがのちのステパノ/イシュトヴァーン聖王(István)、ハンガリーの初代王です(在位 1001-38年)。

 イシュトヴァーン王は、国をキリスト教に改宗し、宗教の中枢・大司教区にエステルゴムを選びました。
 この都市は、Strigoniensis/Strigoniensis というラテン名を持っていますが、それはカトリック大司教区にされたゆえであって、ローマの植民の名残ではないようです。
 この初代以降の歴代ハンガリー王は、このエステルゴムにも宮殿を構えましたが、もうひとつ重要な都市があります。それは、セーケシュフェヘールヴァール Szekesfehervar[Székesfehérvár]
(独 Stuhlweissenburg, 羅 Alba Regalis/Alba Regia)で、イシュトヴァーンはここにも宮殿を持ち、ここで亡くなられました。以降、歴代王の戴冠式がおこなわれる土地、そして埋葬の地となったのです。

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