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新王国時代 第18王朝

アメンヘテプ1世

Amenhotep T

在位年代;前1525−1504年
誕生名;アメンヘテプ(アメン神に愛されしもの)
マネトー名;アメノフィス Amenophis
即位名;ジェセルカラー Djeserkare' (聖なるラーの魂)
治世;22年


王朝の首都;テーベ 
埋葬地;王家の谷KV39? 
出身地;テーベ

家族構成;
父/イアフメス1世  母/イアフメス・ネフェルトイリ 妻/メリエトアメン


先代、イアフメス1世が無くなった時はまだ幼かったため、母イアフメス・ネフェルトイリが一時的に摂政の座についていた。この王妃は優秀な執政官で、人々の信頼を勝ち得ていたようだ。その証拠に、彼女は、死後、息子アメンヘテプ1世とともに神格化されている。この時代の出来事が、王朝での「女神(神の妻たち)の地位の向上」に繋がった、という考え方も出来る。

姉妹のひとりメリエトアメンと結婚するが、妻とはほどなくして死別、その後、べつの妻を迎えた形跡はなく、次の代に即位するのは甥と思われるトトメス1世。


●大規模建造の歴史の始まり

アメンヘテプ1世はアメン神の主神殿、カルナック大神殿の拡張事業を大々的に行った。この王以降、神殿は各王たちによって増改築を繰り返され、どんどん壮麗になっていく。
首都ルクソール(テーベ)の真ん中に作られたカルナック大神殿は、ルクソール神殿とともに、テーベの町の中心を形作る重要な建造物だ。コレが無いとテーベらしくない! と、いうくらい有名な観光名所だが、実はあれは誰か一代の王によってだけ作られたものではなく、部分ごとに作った王様が違うのだ。


●墓と葬祭殿の切り離し

墓と葬祭殿を切り離す、独特の形式を最初に考案したのは、この王だったとされている。葬祭殿については、前神殿・前庭・奥に墓、前庭なし・前神殿と墓、など、まるで日本の寺社仏閣の様式のように細かく名前がついている。ただし、彼自身の葬祭殿は、のちにハトシェプスト女王が総祭壇を作る時に破壊されてしまった。現在のハトシェプスト葬祭殿から見ると、すぐ横に小さく残骸が残っているのが判る。

なお、埋葬後、おそらく第20王朝か21王朝の時代に副葬品などを奪われ、棺の場所が移動されたため、彼の本来の墓の位置は確定していない。ただの盗掘者ではなく、財政難に陥った時の王権によって意図的に墓が開かれた可能性もあり、ミイラ自体は無事に残っている。
墓があったとすれば、葬祭殿から崖を挟んだ反対側の王家の谷周辺のどこかだったはずである。


●死後の神格化

彼は死後に神格化され、王家の谷の入り口に作られた墓づくり職人たちの町、デイル・エル・メディーナの守護神として祀られた。
新年の第一の月には王の像が、おそらく葬祭殿から町に運ばれる、という祭りがあったようだ。


●海外遠征

前王の時代に引き続き、北方シリア、南方ヌビアへの遠征。この時代は、父王の時代と同じく、内政を諸侯に任せて分業する形式がとられていた。内政にとらわれず、落ち着いて遠征することが出来たと考えられる。(外に行ってる間に内乱が起きたら終わりだが、この王朝は民の信頼が篤かったようだ。)
第18王朝の基礎を築いた王と言われるだけあって、エジプトの北と南それぞれの領地を確定させている。


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