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新王国時代 第18王朝

トトメス2世

Thutmose�U
綴りはバラバラ→ Thutmosis Tuthmosis Thothmes

在位年代; 1493年〜1479年
※在位が短かったとする説では 前1482−1480年(1479年) が提示されることもあるが、検討の結果、このサイトでは長期在位説を採用する
誕生名;トトメス(トト神が生み出せしもの)
マネトー名;トトモシス Thutmosis、チェブロン Chebron
古代エジプト語(より古い読み方);ジェフティメス Dhwtymess/ジェフウトモス Djhutmose
即位名;アアケペルエンラー 'Akheperenre'(偉大なるはラーの形)
治世;14年程度

王朝の首都;テーベ 
埋葬地;王家の谷、C4(2022年発見、2025年確定)
出身地;テーベ

墓の発見については以下を参照
・トトメス2世の墓、新たに発見される。(ミイラはもっと前から発見されている) 今までの候補墓、全部ちゃうかったんかい!
・王家の谷で、まだ見つかっていない王墓は他にあるか?→少なくとも3人の候補がいる

家族構成;
父/トトメス1世 母/ムトネフェルト 妻/ハトシェプスト(異母姉)、イシス
息子/トトメス3世(側室イシスの子) 娘/ネフェルウラー(ハトシェプストの子)


従来の説では、下位の王妃から生まれたトトメス2世は、王位継承の正当性を高めるため、第一王妃の子だった異母姉ハトシェプストと結婚したとされる。ただ、家系図を見るとそもそもトトメス2世の父トトメス1世の時点で「先代王の息子」ではなく、「いとこ」程度の関係と思われるため、弱まった王家の血統のために近親婚が必要だった可能性がある。

残されている業績が少なく、かつては即位年が短く3-4年とする説が主流だったが、「後世にハトシェプストが建造物などの業績を簒奪したのでは?」という説も出てきており、実際に年齢を計算すると即位年が長い説のほうが自然のため、ここでは長期在位説を採用する。
ただ、いずれにしろ、息子が幼いうちに命尽きてしまっている。

トトメス2世が非嫡出だったため正妃から生まれたハトシェプストと結婚しなければ王位を継げなかったという説は、エジプトの王権が母系で継承されると考えられていた時代の誤り(それによって近親婚の多さを理由づけようとした)であり、実際はハトシェプストとの結婚前に共同統治によって王位継承者となっている。また、息子トトメス3世はハトシェプストとの結婚以外から生まれており、別の妃を持っていたことも分かっている。

なお、トトメス2世には別の兄弟ワジュモセ、アメンモセがいたが、トトメス2世の即位以前に死亡している。



●妻ハトシェプストとの関係

ハトシェプストの即位した時代に、「ハトシェプストこそ正当な王位継承者である」といった碑文が作られたのは、おそらく女王の即位を正当化するためのプロパガンダである。
彼の碑文は、のちにハトシェプスト女王が書き換えて自分のものとしてしまったものが多い。
このあたりが、日本の創作物ではハトシェプストとトトメス2世が不仲だった設定がよく使われる理由かもしれないのだが、ぶっちゃけトトメス2世が何かしたというよりハトシェプストが一方的に酷いことをやっているようにしか見えない…。

また、創作物ではハトシェプストを妹とするものが多いが、実際にどちらが年上だったのかを示す証拠はなく、トトメス2世のほうを若干年下にしても年表上は辻褄があう。


●即位年について

治世については、マネトーをソースとすると13年。子供の頃の共同統治期間も含めた期間の可能性があり、単独統治としては2-4年だとする説もある。
ただ、もし単独統治年が短かった場合、ハトシェプストとの結婚は即位前、父王の在位中でなければ辻褄が合わなくなる。また、ハトシェプストを当時としては晩婚の年齢にしつつ誕生した年を後ろにずらして死亡年齢を引き下げるしかなくなるため、ミイラの年齢や記念碑などの情報との整合性が若干厳しくなってくる。


●その他の記念碑

カルナック神殿の塔門は、息子トトメス3世が完成させている。
シャスウ(ベドウィンの国とされる。アジア方面)への遠征がイアフメスの碑文で知られている。

●参考
ハトシェプスト女王とトトメス2世の治世を年表にするとどうなるか。やってみた結果


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