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新王国時代 第18王朝

アメンヘテプ4世

(アクエンアテン)

Amenhotep W
Akhenaten
在位年代;前1353−1336年
誕生名;ネフェルケペルウラー・ワァセンラー Neferkheprure'
(美しきラー神の顕現、全知全能なるラー)
即位名;アメンヘテプ・ネチェルヘカワセト
(アメン神は喜びたまう、テーベの力ある神)
改名後の即位名;アクエンアテン(アテン神の役に立つもの)
別読み;イクナートン Ikhnaton/Echnaton
マネトー名;アメノフィス Amenophis
治世;18年

王朝の首都;テーベ→アケト・アテン 埋葬地;アケト・アテン→王家の谷 KV55 出身地;テーベ

家族構成;
父/アメンヘテプ3世、母/ティイ、兄/トトメス(夭折)、妻/ネフェルトイティ、キヤ 他多数
息子/ツタンカーメン、スメンクカラー? 娘/メリトアメン、メケトアテン他多数


エジプト史上もっとも謎に満ちた王のひとりとして、多数の本が出版されている。
アメン神への信仰を放棄し、アテン神を祀り上げた。アテン神自体は彼以前の代(少なくとも父親アメンホテプ3世の時代)から信仰が確認されているが、なぜ突然、それまでの最高神を捨てたのかという理由については諸説ある。
アメン神のみならず他の神々への排除も行われていたようだが、その弾圧は国全体を巻き込む苛烈なものではなく、地方では今までと変わらない信仰が続いていた。狂信者か、計算づくで神官団の力をそごうとした改革者だったのかの意見は別れるが、少なくとも、この王の時代に国政が大きなダメージを受けたのは間違いなく、以後、完全な建て直しは不能のまま、王朝は下り坂ぎみのまま終焉を迎える。


●アケト・アテンの都と過酷な建造計画

それまでの首都だったテーベを放棄し、テーベとメンフィスの間にあるエル・アマルナに「アケト・アテン(アテン神の地平線)」という名の都を築いたが、彼の治世が終わると放棄され、都は短期間で砂に埋もれることとなる。尚、2010年頃からの発掘によりアマルナの一般市民用の墓から出土する人骨はほとんどが10代で命を落としており、栄養状態も悪かったことが明らかになってきたため、都の壮麗さとは裏腹に環境は劣悪であったことが推測されている。また、拷問の跡や骨折など身体の損傷が見られるものも多く、アクエンアテンの治世についてのイメージは大きく変わってきている。

アクエンアテンは恐怖の独裁者だった? アマルナの都に隠された恐ろしい秘密が明らかに

この王の死亡後に王位を継ぐのがツタンカーメンである。
尚、都がアマルナに遷都されていた時代は特異な芸術様式が多く「アマルナ時代」と名づけられている。また、アクエンアテンの一族を「アマルナ王家」と呼ぶこともある。「アマルナ文書」は、再利用されることなく放棄されたアマルナの都に置きざりにされた貴重な文書類のことを指す。


●アクエンアテンのミイラか、別人か?

2010年、KV55から発見されていた、破損した棺の中のミイラ(というか骨)がDNA鑑定の結果、アクエンアテンのものと考えられるようになった。棺の名前が削り取られ、顔の部分が破損していたことから、アクエンアテンを好ましく思わない誰かが故意に傷つけたのかもしれない。ただし、鑑定された年齢は、どう年長に見積もっても35歳は越えないだろうというもので、そうなると以下のように知られている情報と一致しなくなる。というかネフェルティティが6人の娘を産むのはほぼ不可能に近くなる。従って、KV55のミイラはアクエンアテンのものではなく、血縁の王族(スメンクカーラー?)と見なしたほうが可能性が高そうだ。

アクエンアテンの治世から死亡推定年齢を計算してみた

遺体が誰のものにせよ、もとの埋葬地はアクエンアテン自身が築いた都、エル・アマルナ付近だったはずで、未完成のKV55へ移葬されるときに名前が削られたと考えられる。ちなみに発見された骨から、頭の骨が長く、腰骨が男性にしてはやや広く、アマルナ芸術に見られる両性具有のような姿は実際の王家の構成メンバーの風貌に似せたものだったのだろうと考えられている。


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