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プトレマイオス王朝

プトレマイオス1世

支配年代;前年305-282年
誕生名; プトレマイオス
即位名; メリアメン・セテプエンラー
(アメン神に愛されし、ラー神を満足させしもの)
添名; ソテル(救済者)
治世;23年



王朝の首都;アレクサンドリア 埋葬地; 出身地;

家族構成; 妻 ベレニケ1世 息子 プトレマイオス2世 娘 ベレニケ2世

Data;
紀元前332年、アレキサンダーによるエジプト「解放」、331年アレキサンドリアの都に着工する。
331年にアレキサンダー自身からエジプト州提督に任ぜられたのは、クレオメネスというギリシャ人である。しかし323年、アレキサンダーが急逝したのち、アレキサンダーの王国は分裂する。クレオメネスを追い出してエジプトをとったのが、このプトレマイオスという人物。マケドニア軍の将軍でもあったラゴスの息子で、自身もアレキサンダーの近くに仕えた武人である。

プトレマイオスが「王」を名乗り始めたのは、正確には305年から306年のこと。
分裂した王国それぞれをおさめた人物が、もはやマケドニアの一属州ではなく独立を宣言し始めたのだ。

プトレマイオスは、エジプトを統治するに当たり「土着の文化を尊重する」という道を選ぶ。エジプトで描かれる彼の姿はつねにエジプト風であり、伝統的な即位名も名乗っている。しかし土着の言葉は話せず、読めず、また宮廷の重要なポストもギリシャ人が占めていた。
また、この時代に新たに生まれた伝統として、即位名のほかに「渾名」というべき「添名」が肩書きの一種としてつけられるようになったことがあげられる。また、王自らギリシャとエジプトの文化を融合させることに積極的で、ギリシャとエジプトの神々を合成した神格がいくつか誕生した。その一つが「セラピス神」である。
ただしセラピス神は土着エジプト人と入植者であるギリシャ人の融和を象徴するためという意味も大きく、王朝自体はゼウスやデュオニュソスなどギリシャの神々を信仰していた。特にプトレマイオス1世は自らをゼウスになぞらえることが多く、王朝のコインの上側にはゼウスを象徴する大鷲が刻まれており、プトレマイオス1世の肖像の首の周りにはゼウスの象徴であるアイギスが刻まれた。

この代は、アレキサンダーの他の後継者たち、いわゆる「ディアドコイ」との戦争に勝ち残り、自らの領土を確立する必要があった。その戦いの中、エジプトはキプロスおよびクレタの島々をも領土とするようになる。これはエジプト人ファラオの時代にはなかった傾向で、いかにも「海の民」であるギリシャらしい視点である。

★アレクサンダー(アレクサンドロス)王の祭祀

プトレマイオス1世の時代には、大王との繋がりを強調する政策が多く取られている。大王をたたえる祭りの創設、アレキサンダー硬貨の発行などもその一つである。また、マケドニアへ運ばれる途中だった大王の棺をペルディッカスから奪い、アレキサンドリアの街に霊廟を作って安置したことも、王朝が大王の正当な後継であることを内外に示す重要な要素だった。

★「多民族国家」プトレマイオス朝の始まり

プトレマイオス朝は、最初の100年が過ぎたあとは国土が縮小していく一方で、どうしてもエジプトのイメージが強いためエジプトのみ支配していたように思われがちだが、初期には、東はシリアやエーゲ海沿岸、西はキリキアまで、広大な面積を占める広大な帝国だった。その領内にはギリシャ人とエジプト人以外にも多くの民族が住んでおり、実際には多民族国家であった。

★プトレマイオス朝のギリシャ支配の試み

プトレマイオス1世は全ギリシャ世界の支配ももくろんでいたふしがあり、紀元前308年にはギリシャへの遠征が行われている。また、その際に掲げたスローガンは「ギリシャ諸都市の自由」であったとされる。
また、紀元前297年にはアテナイの救援要請に応じて艦隊を差し向けている。この救援は失敗に終わるが、その後の一定期間、アテネとの友好関係は持続し、プトレマイオス3世の治世である紀元前224年まではアテナイへの贈与が確認出来る。尚、紀元前261年のクレモニデス戦争後は一時的に関係が疎遠になっており、前240年ごろにアカイア同盟が力を増した時期に再び接触が濃厚になっている。


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