サイトTOP別館TOPコンテンツTOP

プトレマイオス王朝

プトレマイオス4世

支配年代;前222年-205年
誕生名; プトレマイオス
即位名; イウアエンネチェルウイメンクイ・セテププタハ・ウセルカーラー・セケムアンクアメン
(慈悲深き二柱の神の後継者、プタハ神に選ばれしもの、ラーの魂は力強い、アメンの生ける姿)
添名; フィロパトル(愛父者)
治世;17年

王朝の首都;アレクサンドリア 埋葬地;アレクサンドリア 出身地; アレクサンドリア

家族構成; 父 プトレマイオス3世 母 ベレニケ2世
弟 マグス 妹 アルシノエ 息子 プトレマイオス5世


プトレマイオス王朝の凋落の始まり。有り余る富と権力を手に入れた王のゆく先はだいたい同じである。
のちの歴史化に「遊び人」と揶揄されるほど役立たずな王だったらしく、即位まもなく奸臣の言うがままに母と弟を殺害。王が腑抜けとみてシリアの侵入を許すも、傭兵を雇ってなんとか撃退。(ラフィアの戦い/第四次シリア戦争)
そんな王の態度に業を煮やし、国内で反乱が勃発しているさなかに他界してしまう。
ただしポリュビオスやプルタルコスによる「遊び人」という評価自体を疑問視する研究者もおり、客観的に見れば、対外的な脅威から王国を守り抜くために国内外に威を示す必要性があっての派手な生活だった、とする説もある。

なお、ラフィアの戦いでは最終的に勝利はしたものの、プトレマイオス朝が準備したアフリカ産マルミミゾウはセレウコス朝が準備したインドゾウのゾウ騎兵部隊に太刀打ちできず、その後、アフリカの交易路はゾウを取り扱わなくなっていく。また、土着エジプト人が支配層のギリシャ人に対し頻繁に反乱を起こすようになり、この時代から、プトレマイオス朝は反乱鎮圧に明け暮れるようになる。

古代エジプトが輸入する戦象を警護していた? 紅海/ベレニケ港の近くで砦が発見される



★デュオニソス信仰の変遷
プトレマイオス朝では早くからデュオニュソス神(ギリシャのワインの神)が重要な祖神の扱いを受けていたが、そのデュオニュソス神への信仰が大きく変容し、重要度が上がるのがこの時代。かつてはオシリス神と同一視されていたデュオニソスが王そのものとなり、プトレマイオス4世は、自らを「新しきデュオニュソス(ネオス・デュオニソス)」と称するようになる。これは、かつて古代エジプトの歴史の中では初期に現れていた「現人神」信仰が復活した形となる。つまり、かつてはファラオがラー神やホルス神だったのが、オシリス=デュオニュソスに置き換わったとも言える。

★生前の神格化
プトレマイオス4世夫妻は生前に「テオイ・フィロパトレス」と称されて生前に神格化され、アレクサンドロスと合祀されていた。

★巨大船の建造
この王の時代に、特別に巨大な船「四十の船」(戦艦 )と「タラメゴス号」(ナイル川の行幸用)が建造された。
前者は全長が128mに及ぶ巨大なもので、操舵が困難なため非実用的だったと考えられている。プトレマイオス4世の時代には既に財政難に陥っていたエジプトで、このような実用的ではない船を建造した理由については所説ある。
タラメゴス号については全長87mほどで二層になっており、これも豪華なつくりであったとされる。復元図はまるで水の上に浮かぶ宮殿のようだ。この船でナイルを巡行することによって、国内に威を示したかったのだとも考えられる。


前へ     時代の索引へ     次へ