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神話から現実へ−巨大ピラミッド時代の終わり


 エジプトといえばミイラ、ミイラといえば永遠の命、ミイラは現世に生き返るための器と信じられていた――。
 そう思っている人は多いかもしれないが、私たちが自分たちの宗教観、たとえば輪廻転生や極楽浄土に懐疑的なように、古代エジプトの人々もまたそういった「来世」や「永遠の命」を全面的に信じていたわけではなかったようた゜。
 その証拠が、盗掘であり、ミイラの破壊である。この行為が大々的に始まったのが、まさにこの時代、第一中間期である。

 たとえば、イプエルの訓戒という文書には、こうある。
 『隼として埋葬された者が棺台から投げ出され、ピラミッドが隠していたものが、空っぽになっている。』
  (吉成薫「エジプト王国三千年 講談社選書メチエ より)

 王たちの墓の盗掘など、古王国時代にはありえなかった。あったとしても、ごく僅かな者たちだけが、隠れて行っていたものだろう。その者たちも、内心ひそかに死後の罰を恐れていたかもしれない。
 しかし、この事情は、第一中間期のあと一変した。
 略奪行為は公然のものと化し、過去の偉大なる王たちのピラミッドは格好の餌食となった。人々はピラミッドの表面をかざる化粧石をはぎとって自分たちの家にし、ピラミッドに穴を開けて中の黄金を奪い取ることも厭わなくなる。こういった、神殿や墓などの建築物を壊して二次利用する行為を禁じるため、王自らによる法令や布告まで出されている。
 人々は、ミイラの復活や王の神聖さを信じなくなった。
 なぜなら、過去の偉大なる王たちも神官たちも誰ひとりよみがえっては来ず、第一中間期という混乱の時代を救ってはくれなかったからだ。

 それまで繁栄を重ねるだけだった人々は、はじめて衰退というものを知った。各地で王を名乗る豪族たちが争いあう戦国時代、頼れるものは神でも過去の王でもなく、自分たち自身の力だった。
 助けを欲しても応えてもらえなかったとき、絶望というものを味わったとき、彼らは宗教的な夢から「醒め」たのだ。
 神話と現実の同居する世界は消えて、目の前には荒々しいまでの現実だけが残っていた。
 伝説に縋ってはならない、そう考えるようになったからこそ、魂の審判も神の怒りも恐れず、盗掘行為を行うことが出来たのではないだろうか。

 その国の者たち自身による、過去の聖なる遺産に対する略奪や盗掘といった行為は、宗教的な倫理観から脱却した、近代に通じる合理性の芽生えと取ることも出来る。
 また、民衆だけでなく、復活を信じられた側の王たちにも、宗教意識の変化はおこっていた。この時代以降、王たちは宗教によってではなく、現実的な政策によって国を治めるようになっている。永遠の家である王墓は質素になり、かつてのように、財政を圧迫するようなことは無くなった。
 ピラミッドのような巨大なシンボルによって人心がまとめられた時代は終わった。王は実務によって人々の心を束ねなければならない。それは治水工事であり、対外政策であり、貿易である。かくして、いったん衰退の道を辿っていたエジプト王国は、実利的な考えによって再び繁栄を築くようになる。

 古王国時代以降、巨大なピラミッドが作られなくなったのは、単に王たちの経済力が尽きたからでも、盗掘が目立つようになったからでもない。その理由はもっと深い意味での「必要」がなくなったから、なのだ。
 ピラミッドは、かつてエジプト王国が宗教国家であった頃の名残をとどめて今も立っている。
 しかし、それはもはや人々に永遠の栄光を信じさせるだけの説得力国家を支えるだけの力も持ってはいない、姿だけのものなのかもしれない。


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