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新たな信仰の樹立・神々はいかにしてエジプトに来たか



 ”人々が旅をするときは、その人々の信仰する神々もまた、ともに長い距離を旅するだろう。”

 中王国時代から第二中間期にかけては、多く東方からの移民があった。彼らとともに、東方の神々がエジプトにやって来た。続く新王国時代には当たり前のように崇拝されているアナトやアスタルテ、バアルといった神々も、この時代までは、「外国の神」だった。

 エジプトは、寛容な国である。
 「ナイルの流域に住み、ナイルの水を飲むものはすべてエジプト人と呼ばれた」と、後々の時代にヘロドトスが書いたとおり、ナイル河の流域がすべて、「エジプト」だった。北は地中海、西と東は砂漠、南は川の急流という天然の、絶対的に動かせない国境が存在したことも、エジプトという国のアイデンティティを確固たるものたらしめた理由かもしれない。
 この寛容さは、信仰の世界にも生きている。
 エジプトの国の流域で崇められる神はすべて、「エジプトの」神、なのである。

 外来の神々は、すんなりとエジプトの神にされた。
 外来の人々もまた、エジプト人になった。王たちはこぞってエジプトの風習を取り入れ、エジプトの王たちと同じように振舞おうとした。
 そのため、第二中間期、エジプト下流地域は他所から来た民に支配されながら、実は、エジプトとしての文明をほぼ保ち続けていたのである。(残された碑文がヒエログリフで書かれていた、遺跡がエジプト調だった、など。)


 しかし、この逆もあった。
 ヌビアがエジプトの支配地であった時代、多くのエジプト人が、支配のために、武装して出かけていった。しかし人間だから、長期的な赴任となると、現地の人々と交流が出来る。現地で家族を得る場合もある。結果、ヌビア地方が反旗をひるがえし、エジプトから独立する際には、帰れなくなったエジプト人たちが現地に帰化してしまった。
 南の外国に、エジプトの神々が移住したのである。

 ヌビアにピラミッドが存在するのは、このためだ。
 移住した人々が、エジプトの習慣や、高度な技術を伝授したのだろう。支配されていた地域の人々は、かつての支配者たちの文化を嫌うのではなく、積極的に取り入れ、成り代わろうとした。「ヌビアのホルス」など、エジプトに似せた神々が信仰され、ヒエログリフに似た文字も独自に開発していた。(ただし、この文字は残っているサンプルが少なく、未解読)


 第二中間期は、北にヒクソス人の王朝、南にヌビア人の王朝、中央にエジプト人の王朝という、三つの王国が同時に存在した時代だというが、中身を見れば、すべてエジプト文明だ。
 北の王朝も南の王朝も、エジプト王国の文化を真似、その栄華をわがものとしようとした。
 一時は中央のテーベ王朝をもしのぐ勢力を持っていた北のヒクソス王朝がアッサリ負けてしまったのは、実は、そのためではないか?
 なぜなら、彼らが取り入れた信仰はエジプトの神々のものであり、エジプトでは、王は、神々によって選ばれるのだから。
 それとも、テーベを守護する戦の神モントゥが、砂漠での戦いに不慣れな外来の戦神たちよりも強かったのか。

 もちろん歴史的に見れば、カメス王の奇襲攻撃が上手くいった軍事的な成功が理由なのだろうが…。
 ヒクソスやヌビアがエジプトの神々にひざまづいたとき、神々は、己の勝利を確信したのではあるまいか。

 神々は、エジプト人の王朝に地上の支配権を手渡し、新たな神々を自分たちの世界に組み入れた。そして新しい信仰とともに、新しい時代、「新王国時代」、最もよく知られた、エジプト王国栄光の時代が始まる。
 だが、それは、永遠に色あせぬ黄金の輝きに彩られながら、最後の混沌期へと向かう、神々の力の衰退と没落の時代となるのである。