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二つの神話、二柱の太陽神

2007/12/29 改訂

ラー様を崇拝してみるの図 エジプト神話と聞けば、まず、”太陽神ラー”を思い出す人も多いだろう。
 太陽の神であり、エジプト神話の中の「最高神」として書かれることも多い。

 だが、エジプト全土において、恒久的に、ラーが最高神として崇められていたか、というと、実はそうではない。
エジプト神話は地域による差が大きく、その地域ごとの守護神というものがいた。また、古代エジプト王国の歴史は3000年にもおよび、その間、神々の地位が変動することもあった。「地域」と「時代」、この二本の軸は、エジプト神話を語る上で、決して無視することの出来ない大きな要素となってくる。



まずは、「地域」から見ていこう。
ラー信仰の中心地は、のちに「太陽の町」と呼ばれたヘリオポリスである。古代エジプト人はイウヌ(ン)と呼び、これが訛って、聖書ではオンと呼ばれている、下エジプトの町である。分かりやすく言うと現在のカイロの東側だ。
太陽信仰は、太陽の光を集めるものとして、四角すいの形を好んだ。これが、ピラミッド型のベンベン石や、オベリスクといった、よく知られたエジプトのシンボルの元となったのである。

ヘリオポリス周辺は、より古い時代に国の中心地の在ったところである。古王国時代にピラミッドが多く作られたサッカラ、有名な三大ピラミッドの在るギザ台地、第一王朝の都として建設されたメンフィスなどがある。

だが、時代が進むにつれ、この地域は次第に、政治の中心地から遠ざかる。異国人の侵入を受け、都が上エジプトへ移動した中王国時代(と、いうより上エジプトの豪族が王権を取った時代か)、国の中心地は、もう一柱の太陽神…アメン神の守護するテーベ(古代名はウアセト)にあった。

国の中心地の移動とともに、国家の太陽神としての地位は、ラーからアメンへと代わっていくことになる。


次が「時代」だ。
太陽神の権力の移り変わりは、第一中間期が終わり、中王国時代が始まった頃だと考えられている。第11王朝の辺りになると、ラーの名を冠する王名がいちど途絶え、代わりに、それまで一度も現れたことのない、戦神メンチュや太陽神アメンの名が王名として使われるようになる。

古代エジプトの神々は、地域との結びつきが強い。自分の守護する地域が中心となれば、地位が上がる。
それまで地方神に過ぎなかったアメンが、急激に国家神にのし上がっていったのには、戦乱期に、アメン神が信仰されていた地域の豪族が、エジプト全土を統べる国家を建設するまでになったからである。

最高神がそれまでと入れ替わるわけだから、神々の世界でも、もちろん序列に大きな変化が起こったはずだ。
会社に喩えるなら社長が入れ替わって人事異動が行われたようなもの。転落人生を歩んだ太陽神ラーの神官たちは、地方から成り上がったアメン神の神官たちを恨んだかもしれない。
人間世界の政権交代や首都移転が、神々の世界にも、大きな影響を及ぼしていたのである。


ところで、エジプト神話には太陽神が複数いても問題にならないのだろうか?

OK、問題ない。なぜなら、エジプト神話はまとまったひとつの神話として作られてはないからだ。
異なる系統では神々の役目が変わる。太陽のみならず、創世に関わる神話さえ、複数つくられていた。

エジプト神話は地域色が濃く、地方ごとに異なる神話が存在した。主なものだけで、「ヘリオポリス系」と「ヘルモポリス系」がある。ヘリオポリスは太陽神ラーの信仰中心地だが、ヘルモポリスは、上エジプトにあり、エジプト全土の多くの神々を祀っていた宗教都市である。現代名はアシュムネイン、古代エジプト人はアウノ、またはケメンヌと呼んだ。

ヘルモポリスは古い時代にはラー信仰とは異なる独自の神話体系を持っていたようだが、早い段階でヘリオポリス系の神話と融合し、後半部分をラー神話で補うという形になっている。
また、アメン信仰が盛んになると、創世神話にアメン神の名を入れるようになった。その意味では、ヘルモポリスの創世神話は、ヘリオポリスのものより新しい。

なぜアメン神が、自分の町ではなくヘルモポリスの、他の町の神話に組み入れられることになったかというと、彼自身、自分の神話というものを持っていなかったからだ。
ラーは太陽そのもの、太陽の化身という神だが、アメン神は太陽神といえば太陽そのものとは言いがたく、謎の多い神だ。その名自体、イメン、”隠れたもの”と、いう意味を持つ。隠れたものとは、名前ではなく形容詞だ。名前のない神だと言ってもいい。
太陽神だが、太陽そのものではなく、ラーのように天を巡ることも、照らすこともしていない。創世神話の中においても、太陽の誕生する以前、万物の誕生を助けた「負の」神々の中に名を連ねている。
アメン神は、本当に太陽の神だったのだろうか。それとも、太陽さえ存在しない、目に見えない「大気」すべてを意味する神なのか?
アメン神は、テーベが台頭し主要な神々としてのし上がるまでの姿が、ほとんどほとんど分かっていない。いわば、過去の無い神でもあるのだ。だからこそ、のちにアメン=ラーという同一の神になる際に、ラーの神話をそのまま自分のものにすることが出来た。

アメンの場合は極端だが、神々が習合する場合は、相手の神話も取り込んで自分のものにしてしまうことが多い。
時代ごとに、神話は少しずつ変化していくのである。


※厳密に言えば、その地域ごとに「主神」は異なる。エジプト全土で、ラーやアメンが最高神として崇められていたわけではない。世界の創造主が異なる場合もある。


■一神教を巡るエジプト神話考察

エジプト神話についての本の中には、「エジプトの神々はすべて、太陽神ラーの一部のように見える」という説を書いているものがある。「どういうことなんだろう」と疑問に思っている人がいるかもしれないし、もしかしたら、鵜呑みにしてしまった人がいるかもしれない。

そこで、この説がどうして出てきたのか、何を意味するのか、について、自分なりの解説してみようと思う。


エジプト宗教・ラー一神教説の正体は、たぶん、古代王国の後期に生まれた「サンクレティスム」思想である。
日本語で簡単に説明するならば、神々の融合思想だ。エジプトの神々は、現在名前が分かっているだけでも何百という数になっているが、実態は地方神たちである。その地方限定で信仰された神、日本でいうところの土地神のようなものもいた。
新王国以降、それらの神々を統一された神話体系に組み込もうとし、似た属性、似た名前の神々を融合させる、「習合」という思想が生まれた。そのさい、融合の相手に最も多く選ばれたのが、太陽神ラーなのである。
これは、主にヘリオポリスの神官たちによって行われた。ラー神の聖地がヘリオポリスなのだから、言ってみれば当たり前。

これについて、分かり易く説明してくれている本から文章を借りてみる。

 ラーはやがて神聖なるエジプト王とも同化し、地方の名だたる神祇を次々と習合して行ったが、その習合に際して唱えられた神観はなかなか巧妙なもので、恰(あたか)もわが国における仏教伝来時の「本地垂迹思想」を思わせるものがある。即ち諸神はラーに従属するものではなくて、謂わばラーの権化であり変容であるとの思想なのである。
 太陽神ラーと片田舎の名もなき諸神とでは初めこそ較べものにならなかったが、こうした思想の普及につれ、それは別だん不自然の感なく逆に習合を促すにさえいたった。

(中略)

 こうしてエジプト伝来の神で、公の礼拝を受ける神々は殆どラーと関連をもつにいたったのであるが、それを免れたのは僅かにメンフィス古代の神で、つねにミイラの姿によって現れる技術・工芸の神プターと、クヌム(ヘルモポリス)の守護神で朱鷺の頭をした月神トートくらいのものだった。

−エジプトの死者の書 宗教思想の根源を探る/石上玄一郎/人文書院 より


平たく言えば、政治的な理由からいちばんエライ神様の権威を高めるために、他の神様たちを傘下に置こうとしたのである。
学校の社会科で習うかもしれないが、”本地垂迹思想”みたいなものだ。

本地垂迹…とは、仏教が渡ってきたとき、既にある日本の神々と競合を起こさせず、かつ両方をたてて、遠まわしに仏を信仰させるために考え出された、「日本の神々は実は、インドの仏様たちの化身なのだ。一部のようなもんなんだよ。だから大元の仏さんを拝むということは、今までの神様たちをないがしろにしているわけではないし、本体に直接お参りしてるんだから、いいことなんだ。」…と、いう言い訳である。

しかし、これでハイそうですかと納得されるわけもなく、「なんで日本に元からいた神々が他所もんの仏より格が低いんだ」「むしろ逆に、仏のが神々の一部だろう」と、神主たちから物凄いクレームつけられたというのが日本でのお話。たぶん古代エジプトでも同じように「ハ? 何言ってんの? うちの神様はお宅の神様と関係ないんですケド」と言う人はいただろう。

そこでモノをいうのが都市どうしの力関係なわけ。

たとえばラーが京都の神様、ホルスが奈良の神様だったときに、「京都のほうが都市としては上ダロ? 奈良従えよ。ホルスはラーの下な」と言い出すとか。
首都のある東京のほうが強いというわけで、アメンが東京の神様だったとしたら「ラーなんて昔の首都の神じゃん? 東京の神のほうが今はエライんだよへへん。むしろ貴様が俺の軍門に下れ。アメン・ラーでいいダロ」と、いう話になったり…。

とどのつまり神様の上下・習合というのは、現実世界の都市間の力関係を反映している。ラー一神教、「他の神はラーの一部な」という主張は、中央集権制の発展を意味しているのではないか、と見ることも出来るわけだ。


さて、そのようなラー神官団の主張に対して、古代エジプトで、地方神の神官たちが同じような物言いをつけたかどうかは、記録が残っていないので分からないが、別段拒んだようにも思われない。むしろ、多くの神々が林立する中、生き残りをかけて、有力な神の眷属になることによって消滅を免れようとする、神々の「生き残り戦略」として使われたかもしれない。
弱小企業が自分から大企業に併合されて生き残りをはかるようなものか。

プタハやトトが、ラー神との関係を結ばなかった理由は、この神々が、古来より単独で多大な人気を誇り、余計なスポンサーなどつけずとも、独力でやっていけるだけの勢力を誇っていたからだろう。


エジプト宗教は、紛れも無く多神教、それも10や20ではなく何百という神々を擁する、複雑な多神教だ。
ラー・○○、とラーの名を冠するようになったのは、かなりあとの時代になってからだし、ラーと習合したあとも、ほとんどの神々は習合前と属性に大差なく、実態は地方神のままである。

一神教に見えていたのはラー信者にとってだけだろうし、「エジプト宗教はラーを中心として一神教である」などと書いた本を出版しているのは、きっと現代のヘリオポリスの太陽神官なのだろう。ま、コトは、そう単純な話ではない。

エジプトの神々を成り立ちから追いかけていけばラー神からの派生でないことは明らかだし、ラー神話に結び付けられたのが後付だと分かるはずなので、あんま気にしなくていいと思うよ。



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