サイトTOP別館TOPコンテンツTOP


ツタンカーメンは暗殺されたのか?

2008/01/06(やや修正)


"少年王、ツタンカーメンは暗殺された。”

エジプトにあんまり興味がない人でも、どこかで聞いたことがあるだろう有名な説である。テレビでもよく、この説が流されていた。
だが、この説はすでに誤りと証明されたことを知らない人は、まだいるかもしれない。

順を追って説明しよう。

かつて暗殺説の根拠となっていたのは、過去にツタンカーメンのミイラが持ち出されたときに撮られた1962年のX線写真である。

その写真に頭蓋骨の中の骨片が映っていたので、「殴られて頭部を損傷したのではないか」[頭蓋骨陥没の痕跡ではないのか」と言われたわけだ。
だが、写真が古いのと、当時はそんなに解像度がよくなかったのとで、憶測が憶測を呼ぶ結果になっていた。
そこで技術の進歩した現代になって改めて、死体を検証しようとした。

2005年のCTスキャンで、頭骨に外傷はなく、この骨片はミイラ作りの際に頭骨の内部から剥がれたものであることが確定した。

頭部を殴られて陥没した痕は存在しなかった。また、殴られたなら頭蓋骨の内部で脳内出血が起こるはずだが、そのような痕跡も骨には見られなかった。X線写真で発見された骨片は、ミイラづくりのため頭蓋骨内に樹脂を流し込む際、後頭部の骨に人工的に穴を開けたときに内部に落ちたものだったのだ。(骨片の大きさがほぼ一致した)

――つまり頭部への打撃によって死んだのではない。


では、彼はどのようにして亡くなったのか?
ツタンカーメンの真の死因についてだが、スキャンから約一年が経過した2007年現在、事故死であるというのが、ほぼ確定している。

ミイラのCTスキャンの写真から、左の大たい骨が縦に粉砕されていることが分かっている。
法医学的な見解から、

(1)その折れ方がバイクやスクーターの事故によく見られる
(2)骨の治癒跡がある(数日間は生存していた)

以上をふまえ、「戦死 または戦車などからの滑落による死」という可能性は高いと結論付けられた。また、左足首にも骨折跡があり、ギプスのような物質で固められている、ということも分かっている。

また、ツタンカーメンのミイラの胸には、肋骨がほとんど無かった。ミイラづくりの際、職人の手によって鋭利な刃物で残さず剥ぎ取られたようである。
通常ミイラにする際に取り除くのは脳と内臓だけであって、肋骨なんて傷つけないから、それが無いということは生前に粉砕骨折したなどの理由があったのかもしれない。

この事実もまた、「戦車から落ちたor戦車に轢かれた」ための死亡…戦争もしくは軍事訓練によって命を落とした、という説を裏付ける。実際、墓には戦車(いわゆるチャリオット)も収められていた。ツタンカーメンは軟弱な美少年などではなく、好戦的、活発な若者だったかもしれないのだ。


彼は暗殺されたかもしれないし、されなかったかもしれない。
戦車から落ちたにしても、戦車に細工するとか、戦車から突き落とすとかした人物がいなかったとは言えない。だが、少なくともこれだけは言える。

   ただの事故死の可能性もある。

現在のところ、ツタンカーメン暗殺を示唆する明確な証拠は、ミイラからはじき出した年齢による「早死にした」ということ、埋葬のヤッツケ仕事ぶりから推測される「その死は想定外であった」ということの二点しかない。それ以上、確かなことは誰にも分からない。

アクエンアテンが死んで、ようやくこれから国内を立て直そうとしているときに若き王に死なれて、かわいそうだったのは残された廷臣たちだ。彼の死によって第18王朝の系譜は途絶え、ホルエムヘブ以後は血縁関係のない王族による第19王朝が始まる。

悲劇の少年王、といえばカッコいいが、実際は何もしないうちに早世してしまった、歴史上は地味な人であることを時々は思い出してもらいたい。


* * * *

ツタンカーメン王墓が発見されたのは1922年だが、それは、エジプトでの発掘が単なる「お宝探し」から「学術的発掘」へと移行する、最後の時代だった。カーターは墓内部の財宝の所有権を主張したし、記録もとらずに宝を運び出すことしかしなかった。(※だから発掘の段階で失われた遺物も多いし、それぞれの遺物がどのように保存されていたのかについて、完全に再現することは不可能である)

王のミイラについても、かなり手荒く包帯をひっぺがしたようで、「棺に張り付いていたのをはがした」という表現がされている。さらには、黄金のマスクを外すため、ツタンカーメンのミイラから首を切り取った。(※そのため、現在ミイラは首と胴体が切り離された状態になっている)

ちなみにカーターたちがツタンカーメンの遺体を棺から「ひっぺがさ」なければならなかったのは、ミイラの胸の部分に樹脂を含んだ大量のつめものがされ、その樹脂が溶け出してミイラと棺を癒着させてしまっていたためである。
その癒着部分を取り外す為、ミイラはお湯をぶっかけられ、メスで切り裂かれるはめになったのである。合掌。



さて、ここまでは一応、公式見解というか一般的な「現在の」結論である。
ここから日本ローカルのお話に移る。

ある学者によって、ツタンカーメンは毒殺されたという説が繰り返し主張されていたことを、一般的な古代文明ファンならご存知のはずだ。だが、そもそも、それには、何一つ根拠が無い。また立証も出来ない。何故なら、何千年も経ったミイラの胃袋から毒物を検出することは、まず不可能であり、今後、ツタンカーメンの棺が開かれることは、おそらく無いと思われるからだ。 ⇒(「もう開かない」と言ってたわりに開いて一般公開してしまいました^^;)

そして、現状にそぐわないことから、誤りであるとも言える。
…考えても見て欲しい。毒を飲んだあと、どうやったら足と胸を激しく骨折できるのだろうか? 殴るにしろ落とすにしろ、体に実害を与えるような暴力を振るうのに毒を飲ませる意味があるのだろうか? しかも骨折したあと数日生きていた証拠があるということは、即死しない毒…?
無理がありすぎる話だろう。

ともかく、この説は根拠も無く妄想によって語られているのだが、残念ながらマスコミの素晴らしいお力によって、日本国内ではひろく知れ渡ってしまっている。
その根拠がツタンカーメンの棺に入れられていたヤグルマギクなのだが…。

日本の一般エジプトファンには馴染み深い説だろうから、ここで、敢えてツタンカーメンの棺に入れられていたヤグルマギクについて触れておく。

言いたいことの詳細は上記のリンクページにあるとおりなのだが、要約すると以下のようになる。

★ツタンカーメンの棺に入っていたのはヤグルマギクだけではない。
★ツタンカーメンの墓には他にも多数の花束が入っていた


この二点が、テレビのバラエティ番組では流されない大きな事実である。
と、いうわけで、この主張には以下のような問題点がある。


★ヤグルマギク以外の植物について考証されていない

エジプトものの特集において吉村教授は「エジプトでヤグルマギクが咲くのは5月ごろである。ミイラづくりに要するのは通常70日であるから、逆算してワイン祭りの頃だったであろう。」と述べているのだが、ツタンカーメンの墓にはヤグルマギクのほかに多種の植物が入っていたのだから、その全ての季節が合致しなければ意味が無い。もしも1つでも季節が一致しないものがあるならば、植物はドライフラワーの状態で墓に持ち込まれた可能性が出てくるため、ヤグルマギクの咲く季節からミイラづくりの期間を逆算する説は崩れる。

★ヤグルマギクの咲いていた季節には幅がある

さらに、ツタンカーメンの死んだ年、ヤグルマギクは、いつからいつまで咲いていたのか。
5月に咲くったって、年によっては4月に咲いたとか、6月に咲いたとか、現代のごとく秋にも狂い咲きしましたとか、王家の庭でだけは冬でも咲いてます、とか、例外はあるだろう。まして、今から3500年近くも前の気候なのである。
ヤグルマギクが、その年の何月に咲いたかは、推測でしかない。
ちなみに現代の日本の四国中部では、アサガオはだいたい7月末から9月の頭ごろに咲き、ツクシは3月末から4月終りごろに生える。桜くらいの寿命の短い花ならいざしれず、野の草、それもヤグルマギクなんて、1ヶ月や2ヶ月の幅を持って咲くもんじゃないのだろうか。

※個人的に調べてみたところでは、季節のバラつきという問題は上がっていないようです。ただし、季節的には3月から4月または5月初頭まで、というタップリ2ヶ月以上の猶予を持たせた上で語られていました。まぁ、植物の生態考えれば2ヶ月の幅というのは妥当でしょう。当然ながら逆算した死亡の季節も2ヶ月幅以上になります。


★非常事態なのに通例どおりの葬儀が行われたのかどうか

また、ツタンカーメンは後継者を残さずに死んでいる。ツタンカーメンの死後、残された未亡人の王妃が国外から夫をめとろうと画策していた記録などからして、近縁に適当な王の候補がいなかったと見ていいだろう。
当時はアクエンアテンの無茶な宗教改革により、国内の政治が乱れ、国外の植民地の大半を失っていた受難の時代である。なのに後継者がいない。長く王の不在期間が続けば、政治はさらに不安定となり、内乱などが起きる可能性もあったかもしりない。
そんな時に、伝統どおり70日もかけて悠長にミイラ作りが行われたのかどうか。
古代エジプトのならわしでは、亡き王の墓は次の王の名で封印される。封印後にはじめて、次の王が王として名乗りを上げることが許される。ということは、王が死んだあと本当に70日かけて葬儀の準備をしていたら、70日間の王の不在期間が出来てしまうのである。
もし、時間を短縮するか、異例の処置として次の王が即位したあとに墓を封印していたとしたら?
そうなると、墓の中に入れられていた植物と、王の死亡日時の関連性は途切れてしまう。

そもそもツタンカーメンの墓には、墓作りが間に合わず他の王族の遺品から転用したものがあるなど急いで埋葬された痕跡があるんだから…そのあたりも考慮したほうがいいんではないのか? と、シロウトの私でも思います先生。


…と、まあ、たくさんの問題点を抱える説なわけで、決して皆がこの説を認めているわけではない。
ツタンカーメンの本当の死亡時期を特定することは、花だけではそもそも無理だ。
さも確定したことのように死亡した季節を予言することは、小説家の語る筋書きに等しく、考古学者としては相応しくない行為であると思われる。

***

ここまではいいだろうか…
じゃー次いきますよ。

このように、「ツタンカーメンが○月ごろに死んだ」というのは、あくまで推測でしかない。
この推測に、さらに「死んだのはワイン祭りの頃である」という推測を重ねたものが、吉村教授の「ツタンカーメン毒殺説」である。

以下、遊学舎の吉村教授コメントから引用してみる。

古代エジプトでは毒殺がはやっていました。ですから毒見係がいて飲み物でも食べ物でも必ず毒見係が飲むなり食べるなりして、大丈夫なものを王は食べていたわけです。しかし、年に1回だけ、ワインの新種が出る時、そのワインをアメン神にささげ、おろしたものを王が飲む。神様にささげたものを毒見してはいけません。(ささげる前にします。)なので、おろして王が飲む間に毒を入れることができるのです。そして、毒見をしないまま王に飲ませることができるということです。


この説にも、以下のような問題点がある。

★エジプトで毒殺が流行っていた、という根拠は何なのか

毒殺されたという記録、毒殺の痕跡がある死体を実際に数えなさいということ。
週刊誌のゴシップ記事なら、「なんとなく毒殺っていうイメージがあるからぁ〜」で、すむだろうが、吉村教授は本職の学者さんである。根拠もなく語られても困る。
私が知る限り、明確に毒殺されたと分かる王様は古代エジプトの時代にはにいないんですけど…(笑) 誰のことを言ってるんでしょう。まさかニトクリス女王のダンナ? (時代が違うよな…)
新王国時代に入ってから、毒殺された人に心当たりが無いのです。私が知らないだけだったら爆笑してください。吉村氏本人も知らなかったら、…そん時は… どうしよう。


★ワインは一般的に墓に入れられる供え物である

古代エジプトにおいて、ワインはビールよりも高級な飲み物であり、王家専用のブドウ園もあったほどだ。王家の一族であるツタンカーメンが普段からワインを飲んでいたことは不思議ではないし、死後も困らないようにと沢山の食べ物をそなえるのが普通だった墓に、ワインが入っていたからといって、何の不思議も無い。というより、入ってないほうが不思議なのではないだろうか?

もし特別な置かれ方をしていたのだとしても、ワインが即、毒殺を意味するとは限らない。
古代エジプトの墓は、故人が来世へ持っていくものを入れる場所であり、死後の「家」なのである。ハエタタキや孫の手、耳掻きまで墓に入れるのが普通のエジプトの墓で、ツタンカーメンがワイン好きだったなら特別なワインを入れるくらい、するだろう。場合によっては、ワイン祭りの直前に亡くなったので、飲んでもらう予定だった壷を墓に入れた可能性だって、無いとは言い切れない。
つまり、ワイン壷だけで空想を膨らませても、それは何の証拠にもならないのだ。


★毒殺されたなら、足や胸部の骨折をするわけがない

先にも述べたとおり、2005年のCTスキャン結果では、大たい骨骨折の跡、ミイラの胸部に胸骨がほとんど無かったことが判明している。毒殺されたなら体は無傷のはずで、何も胸の骨を粉砕することはないのであって、現状の証拠にそぐわない。それに対する説明が何もされていない時点で、この説は単なる想像に過ぎないと一蹴していいくらいの話だ。


ちなみに私は、王の毒見係の話を聞いたことがない。判別するとしたら墓内部の壁画だろうが、洗濯してる人、ぶどう絞りをしてる人、釣りをしてる人などは見たことがあるが、「毒見」とわかる人を見たことが無いのである。給仕とどう違うのか。どうやって見分けをつけるのか? 毒見役が古代エジプト語でなんと表現されていたのか、どのような描かれかたをしていたのか、是非とも知りたいところではある。いや嫌味じゃなくて本当に。


★アケトアテンからの遷都先はテーベではなくメンフィスかも

自分は見ていないので分からないが、吉村氏、正月のテレビで「ツタンカーメンはアケト・アテンからテーベに遷都している。だから、テーベでアメン神の祭りに参加して暗殺されたのだ」と、言っていたらしい。
アケト・アテンからの遷都先はテーベではなくメンフィスの可能性がある。
その根拠のひとつとなっているのが早稲田の発掘チームがギザで見つけてきたツタンカーメンの名前いりの指輪だったりするわけですが… 先生…  発掘チームを直接指揮していないのがバレるので、その発言はいかがなものかと。(笑)

以前は、アケトアテンから直接テーベに首都が戻った説が主流だったが、上記のようにメンフィス周辺からツタンカーメン関連の遺物が出ているためメンフィスに首都が戻っていた時期があるというのが学者の間で最近議論されている内容である。

ツタンカーメンが、トゥト・アンク・アテンからトゥト・アンク・アメンに改名しているからといって、それだけを根拠にアメン信仰に鞍替えしたなどとはいえない。
古代エジプトには、過去、セト信者の勢いを押さえるためにホルス名(ホルス神の加護を受けた名前)をホルス・セト名とした王もいた。 ■参考:セト・ペルイブセン王

このような前例がある以上、政治的な判断から、実際の信仰とは異なる神名を名前に入れることが無いとは言えない。もしかしたらツタンカーメンは無力な傀儡王ではなく、アクエンアテン王の改革の流れを引き継いで、アメン神官団への抵抗として首都を古来よりの都であるメンフィスに置こうとしていたかもしれない。だとすると彼に死んでもらいたかったのはアメン神官団だったかもしれないわけだ(笑) 実際ツタンカーメンが死んだ後は、都はテーベに戻っている。ツタンカーメンが死んだのはメンフィスであり、その遺体をテーベ対岸の王家の谷に移葬した時点から首都機能がテーベのアメン神官団のもとに戻った―― 、というシナリオだって描けなくはないだろう。

もし遷都先がメンフィスなら、メンフィスの主神はプタハ神なので、アメン神の祭りにツタンカーメンが参加したかどうかは分からないのではないだろうか。


…このように、ツタンカーメン毒殺説は、根拠の薄い推論の上に、さらに根拠の薄い推論を重ねた、現時点ではただの空想論である。
小説の設定なら良かったのだが…。もう笑うしかない。
こんなものがテレビで延々と流されているかと思うと、まともなエジプト学者さんがどれだけ胃の痛い思いをしているかは察して余りある。

 歴史家は小説家であってはならない。

ただのシロウトの言うことなので、もし私に説得力が無いというのなら、このページは読み飛ばしてくれてかまわない。だが果たして、バラエティー番組で流されているツタンカーメン毒殺説に、それ以上の説得力があるのだろうか。

****
※ワンポイント

ここでは「ワイン祭り」とアバウトな言い方をしているが、吉村先生の言ってる内容からして、オペト祭のことらしい。古代エジプトの祭りの中では、たぶん、一番有名な祭りだろう。
テーベの町でのみ行われた、テーベの主神アメンをたたえるお祭り。アメン神とのその妻ムト、息子コンス神の乗った厨子に人々が願い事をする、アメン神の神像が妻ムト女神の神殿を訪問する、などの内容が分かっている。農業の行われない2月を利用して行われる。

ちなみに、このお祭りは単体では行われない。「天を見上げる大祭」(具体的に何やってたかは不明)「オシリスの死を痛む女神たちの祭り」(これも)など幾つものお祭りが連続したあと、新しい農耕季の始まりを告げる、豊穣神たちの祭りが始まる。

****

2005年以前のテレビ番組や雑誌のツタンカーメン特集では、ほぼ例外なく頭部の骨片とX線写真が掲載され、「ツタンカーメン暗殺説」がさも事実のように報道されていた。かの有名な吉村作治も、「ツタンカーメンは撲殺された」と延べ、とっても楽しそうにゲストに殺人犯探しをしさせていたのを覚えている(笑)

研究がすすめば説が変わる、というのは考古学の世界ではよくあること。当時はX線写真しか、判断する手だてが無かったのだから、仕方が無いとも言える。だが、新たな証拠が出てきたあとの彼の態度は、おおよそ学者とは思えない無残なものであった。



戻る