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ミイラの使い方


死者の遺体とはいえ、何千年も昔のそれは、かつて人であったことを忘れられがちである。
また、死者というものは、生者の都合の良いように使われることが多い、…概して。



もちろん、エジプトのミイラは死んだ古代エジプト人の遺体なのだから、墓に収めて静かに寝かせておくのが本来の使い方である。
しかし、その死者を祀るべき子孫が絶えてしまったり、何千年も経ってしまい死者との関係が疎遠になってしまったりした場合、その死者は何処へ行けばいいのか。
日本の墓地ならば、無縁仏になれば遺骨を集めて集合墓地に移し変える。
しかし、エジプトの場合、古代と現在では宗教そのものが変わってしまっている――。

新しい町を作ろうと地面を掘ったら、地下から、古代人の遺体がどっさり出てくるのである。
放っておけば腐ってしまうし、保存するにも何百体と出てきては場所に困る。どうしていいのか困るのも無理からぬ話。

そこで人々は、死者たちへの敬意が時効を迎えたと思われる古来より、様々な方法でミイラを二次利用してきた。


●薬として

最も有名な二次利用は、「薬」である。
「ミイラの語り方」でミイラの語源を説明する上でも出てきたが、12世紀の翻訳家がアラビアの医学書を翻訳するとき、「ムンミヤ」という言葉の意味を乾燥した人体から作られる薬だと誤訳したことから、エジプトのミイラは「万能薬」だと思い込まれた。

もちろん、当時のエジプト政府がいい顔をするはずもなく、自国で売りさばくためのミイラを取りに行くのは至難の業。見つかれば有罪。ミイラは没収。隠されたミイラを求めて砂漠に繰り出し、「ミイラ取りがミイラになった」事例も少なくはないだろう。

手に入りにくい人間のミイラのみならず、ネコやワニのミイラが持ち帰られることもあった。
また、悪質な業者になると、古代エジプトのミイラではなく、つい最近死んだそこらの人間の死体を乾燥させ、ミイラ化して偽ることもあったという。

とはいえ、皆が皆、ミイラ薬を信じていたわけではない。
乾燥死体など何の効能もない、と断じる医者もおり、「ミイラ薬など一角獣の角と同じ、想像上の万能薬に過ぎない」という意見もあった。また、死者を冒涜する行為は人道に反するという意見から、ミイラ商人を糾弾する動きも、もちろんあった。
それでも「ミイラ薬」という空想の万能薬が求めらたのは、血液型の違いさえ発見されておらず、輸血で死亡する人さえいた、医学の未熟な時代だからこそ…だろう。


●医学の被験体として

それ自体が薬として使われなくなった後も、ミイラは引き続き医学の分野で活躍している。
肉体とともに保存された古代の疾患、疫病や持病の痕跡を調べることによって、たとえば、「人類はどんな寄生虫と人生をともにしてきたのか」を調べることも出来る。
また、ミイラに残された毛髪などからDNAを抜き出すことができれば、遺伝病の解析にも繋がるという。

時を経たミイラの成分解析には困難がつきまとうが、様々な情報が隠された、古代からのメッセージと取ることもできるだろう。
…もちろん、有益な方法で、きちんとデータを取りつつ解析しなければならないが。


●肥料として

上質なミイラや、人間の死体が薬・絵の具にされた一方で、大量に発見された損傷の激しいミイラは堆肥としてしか見られなかった。
19世紀中葉にベニ・ハッサンから発見された30万体もの猫のミイラは、アレキサンドリアにいたイギリスの商人によって「肥料」として輸出されたという。値段はトンあたり4ポンド、全部で20万トンに上ったというから、おおよそ80万ポンドといったところである。

猫の死体はリヴァプールに陸揚げされ、畑に埋められて肥やしとなった…。

なお、ミイラが「燃料として」使われたという話もあるが、こちらはかなり眉唾物の話である。

「エジプト人は機関車にミイラを使っていた。燃料にしているミイラの燃えが悪いと、口の悪い機関士が”庶民は燃えないから貴族をもってこい!”と言った」…と、いった内容で、これはネット上にもけっこう流れている話だ。だが、事実確認をした学者のいずれも、実現は難しいという。
ミイラを燃やしても(それが庶民のものであれ、貴族のものであれ)、機関車を走らせることは、できなさそうなのだ。
出所はどうやら、アメリカの有名な作家マーク・トウェインによる作品のようだ。


●絵の具として

粉にされたミイラは、薬として売られると同時に、絵の具としても売られていた。
その使用は、一説によれば、12世紀――ミイラを薬にするため輸入し始めた頃にまで遡るという。
色の名前はズバリ「ミイラ褐色」。ミイラを細かく砕いて粉にし、油ワニスや琥珀ワニスとまぜあわせたものだ。

人の死体から色を作るなど奇妙なことに思われるかもしれないが、今のように人工的な方法で色を作る技術が未熟だった時代には、特殊な土や、宝石を砕いた粉、樹皮など様々なものから色を作る試みがなされていた。ミイラから作られる薄い茶色は、画家たちにとって幅広い用途に使用できる、人気の色の一つだったようだ。

ただ、画家の中には、この色が本当に人体から作られていることを知らない者もいた。
自分の使っている絵の具が乾燥死体を砕いて作られたものだと知ってショックを受ける場合もあり、19世紀が過ぎると、いつしか人気は衰えていった。


●インテリアとして

裕福なヨーロッパ人にとって、ミイラを自宅に飾ることは一種のステータスだった、という。
古くは、ナポレオンが、エジプトからミイラ化した首を持ち帰って飾ったことに始まる。そう、あの、ロゼッタ・ストーンを発掘させたナポレオン・ボナパルトである。
彼の遠征によってエジプトに連れて行かれた学者たちが大著「エジプト誌」を作り上げたことによって、エジプトを研究する学問分野が確立され、ヨーロッパで一大エジプト・ブームが起こった。その時、ミイラを「飾る」習慣も生まれたようだ。

そんなわけで、ミイラを求めて旅行者たちは気ままに墓を荒らし、数多くの密輸を企てた。(ミイラだけでなく、美術品が同じ目に遭ったことは想像にかたくない)
帰国途中でバレてミイラを没収される旅行者もいたようだが、中にはまんまと持ち帰る者もいた。
…そんなわけで、今日でも、西欧にはたくさんのエジプトミイラがあるのだった。


●観光の目玉として

そして最後に、忘れてはならないものがある。
有名人のミイラは、観光の目玉なのである。
ミイラは昔から、人々の興味をひきつけてきた。誰だって、ちょっとは見てみたいと思うに違いない。ツタンカーメンのミイラが来日すれば、どれだけの経済効果を生むことか。

目の前に、何千年も昔に死んだ、古代文明とともに生きた「誰か」の生身が横たわるのである。彼ないし彼女は、もはや口をきくことは無いが、沈黙した死に顔は見る者に何がしかを語りかけてくる。
その「誰か」が著名な人物であれば、語る言葉は雄弁さを増すだろう。

カイロ博物館には「ミイラの間」がある。発見された歴代王たちのミイラが整然と並べられた、現代のカタコンベだ。
そこはツタンカーメンの財宝を飾った部屋の次に観光客の人気を集めている。




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