「二つの国の物語」

第1章 灰色の町

写真はOsirisExpressさん提供


 エジプトは、アフリカ大陸の北の端、地中海に面する北回帰線直下の国だ。
 アフリカと言っても海を渡ればすぐヨーロッパ、紅海を挟んで中近東とも接している。そのため、様々な文化と人種が交じり合って歴史を作ってきたという。
そんな国だけに、現代の姿を古代のイメージとつなぎ合わせることは困難だった。
20時間を越える長旅のすえ、ようやくカイロ国際空港のロビーに立った円(まどか)たちは、初めて見るこの国に圧倒されていた。
「…なんか、すごいね。」
さつきが見ているのは、砂だらけでアバウトな入国ゲートだった。独特の民族衣装、ガラベーヤを着込んだ男たちが、そこらへんにダルそうに腰をかけている。
 「いつも、こうなんだろうか。」
 「うーん…。どうかしら」
外は、真昼の炎天下だ。砂埃に反射した陽光が、辺りの風景を白く染めている。
 おそるおそる差し出したパスポートを、入国管理官は、ほとんど確かめもせず、切手のようなものを張りつけて返してくれた。日本人は疑うほどのことはない、とでも思っているのだろうか。
 同じ旅客機を降りて来た人々が同じようにしてゲートを潜り、ガイドの案内に従ってバスに分乗していくのを横目にしながら、二人は、出口の日陰に立ち止まっていた。
 「…で、これからどうする。」
 「うーん、今日はもう疲れちゃったし、ホテル行ってさっさと寝たいな、あたし。エコノミー席って狭くてロクに眠れた覚えがないのよ。」
それは、円も同感だった。あの狭くて座りごこちの悪い席で、一晩熟睡出来るのは、よほど器用な人だろう。おまけに、出される機内食は何ともユニークな味付けで、ぜんぶ平らげるのは少々辛いというシロモノだった。
 「そうだな。昼夜も逆転してることだし、今日はゆっくりするか。」
個人旅行なのだ。そう急いで日程を消化することもない。
 タクシーをつかまえた円たちは、念入りな値段交渉のあと、予約してあるホテルへの道順を運転手に告げた。
 窓の外を流れる風景は、黄色く、乾いて霞んでいる。
 何を考えてそんなものを植えたのか、歩道の街路樹はしなびて枯れおち、あとには雑草すら生えていない。痩せた黒犬が墓守りのイメージとは程遠い炎天下でロバと並んで寝そべり、崩れかけたビルが、お情け程度に舗装された道の端によりかかっている。
 新しいものも、古いものもある。
 近代的なものも、古めかしいものもある。
 けれど、そのどちらも、根底に流れているものは同じだと円(まどか)には感じられた。
 ここには「古代王国エジプト」は存在しない。けれど、「近代国家エジプト」でもない。そう思ってしまうのは、ここが、祖父の愛した国だったからなのか。
 モカッタムの丘を左手に見ながら、彼は、その黄色い岩肌が、どこか祖父の萎びた体に似ているような気がしていた。


 よほど疲れていたものか、さつきは、ホテルに着くなりすぐに寝入ってしまった。荷物は放り出したまま、服もそのままでだ。
 それほど高価ではないが、それなりに泊まれるホテルだ。カイロ市内からも近い。
 少しベッドに横になってみたものの、すぐには寝付けそうもなかった円は、さつきの手荷物からはみ出していた観光ガイドに目を止めた。
 そういえば、エジプトに関する知識は、祖父から聞いたものくらいしかない。
 明日からは自分たちの自由行動に入るのだから、さつきに任せきりではなく、少しくらい予備知識があったほうがいいかもしれない。
 本を抜き取り、何気なく開いた彼は、開いたページに、この周辺の地図を見出していた。
 カイロ…。
 ”大きな町”を意味するアラビア語からつくられた名前。他にも、ブラク、シオブラといった、いかにもイスラムな名前が続く中に、ぽつりぽつりと、古い名前が交じりこむ。
 ヘリオポリス。
 サッカラ。
 メンフィス。
むろん古代エジプト人がそのように呼んでいたわけではないだろう。ヘリオポリスなど、ギリシア人が名づけた名前である。消えてしまった古代名は、「オン」。―――だが、その名前が、地図上に表れることは、無い。
 それでも、この町が、遥か何千年も昔からエジプト世界の中心地として栄えつづけていた証しは決して消えない。
 ギザの台地に立つ、あの巨大な建造物が、その確たる証拠だ。
 ぱらぱらとページをめくっていた円は、大きな写真いりで紹介されたピラミッド紹介記事を難なく発見していた。
 子供の雑誌にも出てくるくらい有名なものだ。
 だが、その巨大建造物が造られた経緯に関しては、未だ、謎が多い。果たして、人の手によって造り得たものなのか。
 やれ宇宙人が造ったの、それ超古代文明だの、オカルトマニアはかまびすしいが、円(まどか)には、あまり興味のないことだった。
 ―――そういった説のどれも、この乾いた国には相応しくないような気がしていた。
 「トトの秘密…。」
ふと、円は、かつて祖父の書棚から抜き取って読んだ、古代の物語を思い出していた。
 それは、エジプト神話とは別に歴史の記録として残されたものだった。
クフ王の在位していた第四王朝半ば、知恵の神トトの秘密を知る老賢者ジェディが現れ、神々の寵愛を失いつつあった王に巨大ピラミッド建造の知識のありかを教えた…。
 人物関係や神話的な色合いから、正しい歴史を示しているとは言いがたいこの物語だったが、円は、それなりに事実も含まれているのではないかという気がしていた。
 王に知恵のありかを教えたのは、神その人ではない。
 ジェディという名の老人なのだ。
 彼は神にしか出来ぬはずの生死を操ることさえやってのけ、神しか知らぬはずの未来を予言した。イムヘテプなどと違い、神格化されて後に残ることが無かったために実在していたかどうかは分からないが、ずば抜けて優れた頭脳を持つ人間が、ピラミッド建築の影にいたことは大いに在り得る。その人物がジェディという名であったにしろ、そうで無かったにしろ…形を変えて、物語の中に取り込まれていたら…。
いつしか、まどろみの中で円は、まだ何もないギザの台地に立つ老人のイメージを見ていた。
 薄汚れた衣装を身に纏い、よじくれた牧杖ヘカトを握り、砂の向こうに遥か未来を見つめている。
 だが、それは、遥か何千年も昔の古代エジプト人ではなく、見慣れた、祖父の萎びた後ろ姿なのだった。


 気が付くと、窓の外はすっかり薄暗くなっていた。
 起き上がった円は、急に喉の渇きを覚えて、足元に転がしてある荷物の中からペットボトルを抜き取った。エジプトでは、生水は飲めないのだ。
 飛行機の中で時間をあわせた腕時計に目をやると、6時。ホテルに到着したのが2時前だったから、4時間近く眠っていたことになる。
 隣に目を遣ると、さつきは、丸くなってまだ眠っていた。
 「おい、起きろ」
揺さぶっても、返事はううん、としか返らない。
 「起きろよ、さつき」
呼びながら、円は、さつきの名前を口に出して呼ぶのがずいぶん久しぶりなことに気が付いた。再会してからは、初めてのことだ。
 だが、そんな僅かな発見など、どうというものでもなかった。
 「…おい、起きないとメシが食えないぞ。この国にコンビニなんて無いんだからな。」
 「うーん…。あたし、要らない…。」
 「そんなこと言ったって、昨日からまともなものは何も食べてないだろ。」
 「おなか、すいてない…。」
ほっといてくれ、と言わんばかりに円の手を振り払い、彼女は、もそもそと子供のように布団の中へもぐりこんでしまった。
 溜息をついた円は、起こすのを諦め、枕もとに置いていたガイドブックを開く。
 正直言って、彼自身、あまり腹は空いていない。空いていないが、朝食つきなどという豪華な旅ではない以上、何か、明日の朝のぶんくらいは購入しておく必要がある。
 それに飲み水もだ。
 この時間、開いている店は限られるだろう。ホテルに売店はあっただろうか? 確かめておかなくてはなるまい。
 「おい、さつき。ちょっと買い物に出かけてくるからな。」
一応、一声かけたものの、返事はなかった。このぶんなら、戻って来るまで熟睡しているだろう。
 彼女1人を部屋に残していくことには気がひけたが、鍵をかけておけば大丈夫だろう。
 ひとつしかない鍵で部屋のドアをロックし、円(まどか)は、薄暗くなりはじめたばかりの町を歩き出した。
 お情け程度にでも冷房の効いていたホテルの建物を出ると、途端にむっとした熱気が押し寄せて来る。
 30度はあるだろうか。舗装された地面から逃げていく真昼の熱気が、ごちゃごちゃと立ち並ぶ家々の間にわだかまっている。見上げると、見慣れない星図がくすんだ灰青の空に散らばっていた。
 観光ガイドの地図に因れば、何ブロックか先の通りにマクドナルドがあるはずだった。
 こんな遠い国まで来てマクドナルド、というのも何だか味気ない気がしたが、食生活の大きく違う場所で、それなりに安心できる食べ物と言ったら万国共通を謳う大型チェーン店の品ではないだろうか。
 信号は無いが、日本に比べ格段に交通量の少ない通りを横切り、少し細い薄暗がりへ歩き出しながら、―――円は、先刻の夢のつづきを思い出そうとしていた。
 まだ、少し寝惚けた感覚の残る脳みそは、実際の時間を容易に飛び越え、空想と現実の境をあやふやにする。
 「トトの秘密」という物語は、紀元前1800年ごろ――――今からおよそ、3800年前のパピルスによって、現代にもたらされたものだった。


 物語の導入部で、クフ王は、自分の3人の息子たちそれぞれに物語をして余興を盛り上げるよう指示をする。上の2人の息子、カフラー、バウエフラーはそれぞれ過去の物語をし、最後の1人、ホルジェデトの番になる。
 すると彼は、過去のお伽噺など意味はないと兄たちに言い放つ。そして、「これは現実の物語だ」と、砂漠に住む大魔法使い、ジェディの偉大なる話をはじめるのである―――。
だが、この物語の主人公は、ホルジェデトではない。一見、クフ王の宮廷の物語のようでありながら、この話は、クフ王の存在する第四王朝をたたえるものではなかった。
 ホルジェデトによって宮廷へと招かれた老賢者ジェディは、クフ王に告げる。大ピラミッドを完成されるためのトト神の秘密は、他の何処でもない、都…太陽の町、ヘリオポリスの中にあるのだと、しかも、その秘密をクフ王に齎すことが出来るのは、次の王朝を開くラーの息子だけなのだ、と。
 歴史的に見れば、この物語は現実と異なる部分を多く含む、単なる空想物語だ。クフ王は実在し、実際にピラミッドを建造したが、物語を書いた何者かは、単に過去の名の知れた王を登場人物としただけなのかもしれない。編纂されたと思われる時期が、クフ王の没したあと約500年経ってからだという研究者の意見も、それを裏付けているように思われる。
 ジェディに当たる人物は存在しなかったし、神の秘密もまた、話を面白くするために作られた小道具であったのかもしれない。
 そもそも、物語そのものが、第5王朝の正当性を主張するための政治的思惑をもって創られたものだったかもしれないのだ。
 だが―――――
 だとしたら、あの巨大なピラミッドを作り上げた知恵は、一体どこから来たのだろう。そして、その後、同じような巨大建築物が作られなかったのは、なぜなのだろう?
 時間は戻せず、過去を実証することは出来ない。
 だからこそ、歴史の謎には幾つもの答えが存在する。何が正しい、というわけでもない。答えを探して、人々はギザの台地を目指す。この何千年、解かれぬままの謎をその奥に抱いた、巨大な建造物を見るために。
そうして、自分たちもここへ、引き寄せられてきた。


 ようやく見慣れた看板を見つけた時、空に残っていた太陽の残滓はすっかり西のかたに追いやられ、辺りには、薄い暗がりが広がっていた。
 メニューもディスプレイもアラビア語で飾られた店内は、知っているようで知らない、不思議な空間になっていた。さつきは、ああ言っていたが、どうせあとで何か食べたくなるに決まっている。
 とりあえず、2人ぶんのセットを持ち帰りで注文した。
 品物が出来上がるまでの間、円は何の気なしに店内の様子を眺めていた。当たり前かもしれないが、そこにいる大半は、エジプト人だ。チャドルを着てオレンジジュースを飲む女性など、そうそう見られるものでもない。
 ポテトをつまむ子供。
 観光客らしい西洋人。
 それから――――
 と、ふと、彼は、一番奥の窓ぎわに座る男に目を止めた。連れはいないらしく、ひとりだけだ。荷物もない。食べ散らかしたトレイを前に、何やらもじもじしながら落ち着き無く辺りを見回している。
 薄汚れたガラベーヤが、店内の明るい輝きの下でひどく不自然に見える。何かに怯えているようにも思えた。
 「ヘイ」
呼ばれて、円は振り返った。
 目の前に、巨漢の男が独特の笑みを浮かべて持ち帰りの袋を差し出している。ニコニコしながらも、それ以上何も言わないところから見て、この男が知っている英語らしきものの語彙はそう多くはないのだろう。
 もっとも、それは円のほうだって同じことなのだが。
 「センキュー」
日本語なまりの英語で言って袋を受け取ると、男は、白い歯を見せて笑った。生まれてこのかた、歯医者のお世話になったことなど無いような笑顔だった。
 店を出た円は、ホテルのほうへ向かって歩き出した。いくら何でも、さつきも起き出す頃合いだ。いちおう出かけるとは言ったものの、ちゃんと聞いていたかどうかは怪しい。
 だが、ひとブロックほど行ったところで、彼は、背後から近づいて来る何かに気が付いた。
 特に勘が優れているわけではないが、分かるものは分かる。
 特に、こんな人通りの少ない場所では、分かってしまうものなのだ。
 ――――付けられている。
 物取りか、それとも、他の何かが狙いなのか。車をやり過ごすふりをしてコーナーに立ち止まった彼は、それとなく、後ろを確かめてみた。
 くすんだ色のガラベーヤ。…さっきの男だ。どうやら、自分が店を出るのを見て、追いかけて来たらしい。
何かイヤなことになりそうだ…とっさにそう感じた。
 見知らぬ土地、見知らぬ胡散くさい男。その男が、こそこそと夜道をつけて来るのである。何もないと思うほうがおかしい。
 (…金目当てか?)
日本人が金を持っていることは、この辺りのエジプト人なら大抵が知っているはずだ。暗がりに紛れて、隠し持っていたナイフでもちらつかせる気かもしれない。
 急いでホテルに戻ろうかとも考えたが、この先はほとんど真っ直ぐだ。わざわざ、どのホテルに泊まっているのか教えてやるのも癪だし、この先、安心して部屋に荷物を置いておけなくなる。
 わざと遠回りして、まいておくか…。
 それとも、思い切って、つけてくる理由を問いただしてみるか。
 そうこうしているうちに、追って来る男は速度を上げていた。半ば走るようにして、こちらへ向かって来る。
 明らかに、円を目指しているのだった。
 切羽つまった表情から何かを読み取った円は、あと1ブロックゆけば、街頭のある大通りと交わることに気が付いた。向こうは、こちらが明るい場所に出る前に追いつこうとしているのだ。
 意を決して走り出そうとした、その時だった。
 「マッテ!」
男の口から、鋭い日本語が発せられた。
 「…?」
驚いて、一瞬、走り出しかけた足が止まった。その間に、男は円に追いついて来てしまう。
 薄暗い中、円は、息をきらせた男と向かい合っていた。
 「な、なんなんだ…」
 「マッテ、マッテ」
ひどい訛りの言葉を繰り返しながら、男は服の下に手を突っ込む。一瞬、刃物でも取り出すのかとひやりとしたが、そうではなかった。
 取り出されたのは、ずいぶんヨレヨレになった、茶色い角封筒だった。書類を三つ折りにして入れる、細長いものだ。
 円には、何が何やら分からなかった。
 「…アズケル、タイセツ」
 「は?」
 「モツ」
言いながら、男は、円の開いているほうの手にその封筒をグイグイと押し付けて来る。
 「タイセツ、モツ」
 「ああ? …預けるって、あんた一体」
 「アズケル…、モツ」
どうやら、この男はそれ以外の日本語は分からないらしい。混乱した円が反射的に封筒を握ってしまったのを確かめるや否や、男はさっと身を翻し、すばやく周囲を見回すと、脱兎の如く駆け出した。
 「あ! おいっ」
呼びとめる暇もない。
 ぽかん、として立ち尽くす円を置き去りにして、男は、灯りの無い細い小道の奥へと吸い込まれて行った。


 ホテルに戻ると、時計の針は、もう午後7時を指していた。
 さつきは、今ようやく起きたばかりといった顔で、荷物の整理にとりかかっていた。
 「あ、お帰り〜」
ドアを開けると、寝惚けたような、間延びした声が出迎えてくれる。
 「いつ起きたんだ」
 「今さっき。あ、マクドナルドだ! すごいね、ここにもあるんだ。」
 「一応、お前のぶんも買って来た。」
袋を、ひとつしかないガタガタのテーブルの上に置くと、円は、とりあえず手を洗うため洗面所に向かった。
 さっき、路上で男に握られた感触が、まだ生なましく残っている。
 手は、異様に暑かった。走って来たせいもあるのだろうが、その熱っぽさと乾いたゴワゴワとした皮膚の感触は、何か、生きた岩の表面を思わせるようだった。
 そして、渡されたあの封筒は―――。
 「んねぇ、どっち貰っていい−? フィレオフィッシュとチーズバーガー」
 「どっちでも。好きなほう食べろ」
 「じゃ魚もらうねー。」
がさがさと、袋を漁る音がしている。
 「あれ?」
洗面所から出てきた円のほうを振り返って、さつきは、袋の中から取り出した封筒を掲げた。
 「これ、何?」
 「ああ…。それは」
説明しなければならないが、その前に、中身を確かめておく必要がある。違法なものや、明らかに犯罪がらみのものだったら、すぐに警察に届けなければならないからだ。
 テーブルをベッドの端に引き寄せ、ベッドの端をイスがわりにして腰掛けながら、円は、まだ見ていなかった封筒の中身をオレンジ色の電灯の下に広げた。
 中から出てきたのは、砂にまみれた一枚のメモだった。もとは白かったはずなのに、色あせて黄色くなってしまっている。どこかのホテルの備え付け用紙にも見えた。
 「…なあに、それ。」
さつきが身を乗り出す。しわくちゃになった封筒の中をひっくり返すと、黄色い砂の粒が、ぱらぱらとテーブルの上に零れる。
 かすかに、砂漠の臭いがした。
 「それで、何て書いてるの?」
メモの上には、インクで走り書きがしてある。
 「無茶言うなよ。読めるわけないだろ。」
のたくった無数の虫が、丸い頭を左右に振っているうようなその文字は、文というよりは模様だった。
 これが、何かの犯罪に関係していないとは限らない。捨ててしまうか、誰かに知らせるべきかもしれない。
 けれど、円は、そのメモを渡されたときの男の切羽詰まった顔と、たかがメモ一切れで大騒ぎすることもない、という、2つの相反する思いに葛藤した。
 ただのメモなら、捨ててしまっても構わない。あとあとの厄介ごとを考えて、捨ててしまうべきだ。
 でも、もし違っていたら…。
 「タイセツ、アズケル」
あの男は、そう言っていた。相手が日本人でなければならない理由でも、あったのだろうか。
 「ちょっと、エンちゃん」
考えこんでいた彼は、さつきの声で我に返った。
 「冷めちゃうよ。食べないの? 買ってきたの、エンちゃんじゃん」
 「あ…うん」
さつきは、あまりおなかは空いていなかったらしく、ポテトを少しとオレンジジュースを半分飲んだだけだった。残りは明日の朝、腹ごしらえに使うつもりだろう。
 円も、エジプト風味のビッグマックを手にする。
 「そういえば、明日はどうするんだ?」
観光に来たのだ。そっちに話題を変えなくては。
 「うん、やっぱり最初はピラミッドでしょ。」
そんなの当然、といわんばかり、さつきはガイドブックを開く。
 カイロからキザまでは、観光者用のバスが出ている。多くは、ヒルトンなど高級ホテルの前からだ。
 「どうせだから、どっかのツアーに紛れちゃう?」
さつきは、いたずらっぽく笑う。
 「ガイドの話なんか聞いたって面白くない。」
 「そっかなあ。じゃ、あたしがガイドやるのはどうかな。『あちらに見えますのがギザの3大ピラミッドでございます。これらは第四王朝の王、クフ王、カフラー王、スネフェル王が・・・。』」
円は、ガイドブックを読み上げるさつきの声を、半分上の空で聞いていた。
 未だ謎の多い大ピラミッド。
 誰が何のために創ったのか――――どうやって創ったのか。その謎に魅せられた者は、今まで数知れない。
 「ねえねえ、エンちゃん。知ってる? スフィンクスってエジプト語じゃないんだよ。」
得意満面に言ったさつきだったが、ぼんやりしていた円の反応は、そっけなかった。
 「知ってるよ。」
 「ええ? 何で!」
 「ジイさんから聞いた。」
 「おじいちゃんから? あ、そっか。おじいちゃん、エジプト、好きだったもんね。」
丸っきり、忘れていたような言い方だった。
 それも無理ないかもしれない。宗一郎は気ままな人だったから、自分からは子供や孫たちに接触しようとはしなかった。
 こまめに会いに行っていたのは、円のほうからだった。
 あの家のホコリっぽさが好きだった。新しいものと、古いものとが中途半端に交じり合う、不思議な雰囲気が、奇妙に居心地よかったのだ。
 「ねえねえ、エンちゃんはさ、だから今回の旅行に付き合ってくれたの? おじいちゃんが好きだったから?」
 「…いや。オレも好きだよ。エジプトは…。遺跡はだいたい好きだけど」
 「そうなの? じゃ、あたしと一緒なんだね!」
 「うん、まあ…そうなるかな。」
考古学者の家系でもあるまいし、どうしてこうも遺跡好きが生まれるものか。
苦笑して、円はハンバーガーの中に隠れていた巨大ピクルスを引っ張り出した。しかも3枚も入っている。
 世界共通テイストだなんて、ウソっぱちだ。姿かたちは日本のハンバーガーに似ていても、立派にエジプトの味がする。
 祖父の家に遊びに行った時に作ってくれた、和菓子とも洋菓子ともつきにくい不思議なホットケーキを思い出す。
 どちらでもない、はっきりしない。宗一郎は、そんな境界線に時間の狭間を浮遊しながら生きていた人だった。
 エジプトへ来た、今なら分かる。祖父が、なぜ、この国に魅せられていたのか。
 ここは―――この国は、祖父と同じなのだ。古代宗教都市ヘリオポリスの隣に飛行場が出来たように、町の色が、白でもなく、黒でもない「灰色」であるように―――。


 どこかに時の狭間を抱いたまま、古代の上に築かれた現代都市の時間は、ゆっくりと流れてゆく。

*この作品は、突発的に一章ぶんだけ書いたものなので、続くかどうかは分かりません…ハイ。

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