ちいさなひとひら



 ウソ発見器なんて、役に立つわけが無かった。

 だってそれは、嘘でもなんでも無かったのだ。ぜんぶ本当のことだった。空が落ちてきたことも、星が燃え尽きてしまったことも、僕の目の前で、早月が犬になってしまったことも。
 「つまりお前は、自分でそれを本当だと思い込んでいるんだ。」
と、晴士は言った。
 「ウソ発見器というものは、本人にウソの意識が無いと、反応しない。脳波の乱れ、手の汗ばみ、声調の変化などは、意識的に起こるものだ。無意識のうちに刷り込まれた内容や、本人が意識していないこと、既に書き換えられてしまった意識に対しては、正誤の判断をつけることが出来ない」
そんなことは無い、あれは全部、本当のことだー−。それとも僕は、自分で作り出した幻想を、「本物だと思い込む」ことで、目にした真実を上書きしてしまったのだろうか?
 「だしても、奈津が悪いわけじゃないさ。とにかくウソ発見器は役に立たない。お前にとっちゃ、それが”本当のこと”なんだ。考えてもみろよ。それが本当かウソかを知っているのはお前だけで、奴等はお前自身に、本当なのかウソなのか? と聞いてるんだ。ウソだろうが本当だろうが、結論は出るワケがないんだよ」
だけどーー、
 と、僕は俯く。だけど、僕には早月を見つけられない。

 早月がいなくなってしまったのは、一昨日のことだった。それまで、僕らのうちの誰かが”柵”を越えて出て行ってしまうことなど無かった。その柵は僕らの身長の何倍も高く、空に突き刺さる鋭利な先端には、強力な電流が流れているという話だった。
 誰も触れてみたことは無く、本当かどうか疑ってみた時期もあったが、あるとき、上級生がいたずらで飛ばした紙飛行機が、偶然、針金に触れて一瞬で燃え尽きた時から、僕らは誰も、その柵の威力を疑おうなどとは思わなくなった。
 柵には一ミリの切れ目も無かった。校舎と宿舎と運動場をぐるりと取り囲んで、空に向かって聳え立っていた。
 あるとしたら、あの恐ろしい竜のようなクレーンの見張っている、北側の門だけ。
 でもそこは、断崖絶壁に突き出す岩棚の上で、運良くクレーンの下を潜り抜けられても、鳥でもない限り何処にも行けないのだった。
 そう、早月が本当に成りたかったのは、犬なんかじゃない。もっと確実に自由になれる、翼を持った鳥なんだ。
 教官たちは、しつこく僕に尋ねた。早月がいなくなるところを見たのは、正確に何時だったのか? どうやって柵をくぐりぬけたのか? そして決まってこう言った―ー「本当のことを、言いなさい!」
 それは、まさに拷問だった。僕は大きな椅子に縛り上げられ、怪しげな拘束具をつけられて、ありとあらゆる質問を浴びせ掛けられた。鬼のような顔をした教官たちが、しかつめらしい顔をして、僕の顔を覗き込んでいる。だけどウソ発見器のレベルは、0を指したまま変わらない。嘘じゃない、僕が本当のことを言っているからだ。…それとも、ウソ発見器が壊れているんだろうか。

 その晩は、月の出ていない夜だった。眠れなかった僕は、なんとは無しにむくりと起き上がり、書きかけの絵を眺めていた。窓際に立てかけたキャンバスは闇に沈んで、四角い輪郭の上には何も見えなかった。でも僕には、はっきりと感じられた。そこには、盲目の少女がニコリともせず、うつろな目を向けてこちらを眺めているのだった。
 どうしても、目の見える人の絵が描けなかった。
 これまで描き重ねて来た何人もの人、男の人、女の人、大人、子供、はては奇形の異星人に至るまで、僕が描くと、必ず目が虚ろになった。何も映していない瞳、口元だけは笑みを浮かべられても、目は無表情なまま。…そんな人々だった。
 僕を、見て欲しかった。
 晴士の口調のように、胸を刺すような正確な鋭さで、早月の、相手が動けないほど凝視する瞬きすら無い視線で、其処からずっと僕を見つめていて欲しい。
 でないと僕は、今すぐにも、ここから消えてしまいそうな気がする。
 世の中には、人に見つめられることが怖い人がいるという。自分に見られることすら怖くて、鏡を覗けない恐怖症。或いは、誰もいないのに、始終、人の視線を感じてしまう人。
 僕には、その人たちが恐れる視線が、必要だ。誰かに、「お前の姿は、頭のてっぺんからつまさきまで、確かに見えている」と言って欲しい。そんな夜が、たまに、やって来る。
 だから僕は眠れなかった。闇の中から虚ろな瞳に見つめられ、その視線が僕の上を素通り過ぎていくことが、耐えようもなく恐ろしかった。光の無い暗がりが、それを一層、強くした。そんなわけで、その夜の僕が少しおかしかったかもしれないことは、自分でもわかる。
 眠れないので絵をひっくり返そうと立ち上がり、窓に近づいたとき、何かが見えた。暗い影だった。ほっそりとした横顔と、青白い寝巻きから見える細い手足で、光が無くても早月だと分かる。霞がかった空に細い月が出ていて、早月の輪郭は二重にぼやけていた。
 彼は柵に近づいて、空を見上げて何事かを呟いた。口の動きは、はっきりとは見えなかったけれど、誰かの名前のようだった。
 そのとき、空が落ちてきた。真っ暗な空だった。洗濯しすぎたザラつくシーツのように、それは早月を覆い隠し、星を散らした。一緒に落ちてきた太陽は、地面に転がるなりジュウッと音をたてて燃え尽きてしまった。慌てて外に飛び出そうかと思ったけれど、それよりも早く、夜が捲れあがったのだ。
 下から飛び出して来たのは、早月だった。体じゅうが毛に覆われて、寝巻きのお尻から尻尾がにょっきり生えていた。頭には、尖った耳がぴくぴくしている。
 ああ、犬だ・・・
 僕はよろめいて、キャンバスを倒した。青白い光が庭から建物を舐め、どこか遠くで犬の遠吠えが聞こえた。それが、僕の知っている出来事の全てだ。あの夜の、真実だった。

 不思議なことに、普段は容赦なく僕の誤りを指摘する晴士が、今回ばかりは何も言わなかった。いつもだったら、お前は浮ついて物事の判断もつかない奴だ、と笑うくせに、今回ばかりは黙って頷くだけだった。早月がいなくなったこと、彼は彼なりに気にしているのかもしれなかった。
 二人は兄弟だった。いや、もしかしたら本当は、双子だったかもしれない。試験管ベビーだから、どちらが兄で、どちらが弟というわけでもない。
 受胎卵の培養中に何かの手違いで四、五人に増殖して、人権問題だか何だかで一人に減らすことも出来ず、さりとて遺伝子上の両親には全員引き取る余裕もない。そんな時は、一人が選ばれて、残りはここに送り込まれる。
 もちろん、僕のような「失敗作」もだ。
 成功するまで、両親は飽くことなく何度でも遺伝子の合成を試みるから、知らない間に兄弟が増えていることは少なくない。無知な僕でも知っている、ここでは「当たり前」のことだった。
 僕たちは、そこにいることすら忘れ去られて久しい存在だったのだ。
 だのに、勝手にいなくなることは許されていなかった。柵の外に、「出てはいけない」人間なのだ。
 早月がいなくなってから、教官たちは、いつも深刻な顔をして話し合っていた。そして声高に、よりにもよって、”脱走”を目撃したのが僕だったことを嘆いた。もしも他の誰かだったら、少しでも真実味のある話が引き出せただろうに。
 晴士は黙って腕を組んで、いつもそうしていたように、眉間に皺を寄せながら壁にもたれ掛かっていた。僕は鉛筆を握り締め、ずっと紙を見つめていた。顔の無い人、人。髪型を変えても、小太りにしても、誰にも似ていない人の顔。どんなに時間をかけても、紙の上に生まれるのは、目に光の無い人ばかりだ。僕を見てくれない。
 教官たちの声が遠ざかり、多目的室にいる人数もまばらになっていた。

 どれくらいの時が過ぎていたのだろう。とつぜん、晴士が近づいてきた。「おい、奈津」
 彼はぐい、と僕の腕を引っ張って立たせた。「ついて来い」
 食堂を通り過ぎ、長い廊下を渡って宿舎にたどり着くと、晴士は勝手に僕の部屋に上がりこんだ。
 何十人もの、目に光の無い人の顔が、キャンパスの上に厚ぼったく塗り重ねられている。「こんな人形にお出迎えされたら、俺なら首を括りたくなるな。」そう言って、晴士は声をたてて笑った。
 「なあ、俺を描いてみろよ。」
 「え?……」
 「俺を描いてみろ。お前、絵は下手じゃ無えんだからさ。うまくいかないのは、モデルが居ないからじゃないのか。俺がモデルになってやるよ」
そう言うと、晴士はキャンパスの隣にどっかと腰を降ろして、にやにや笑った。目には、いたずらっぽい光が浮かんでいる。僕はおずおずと絵筆を取る。
 「よおく、見てくれよ。似てなかったら、殴るからな。」
その、耐えることなく毒を吐き出してくる口元。生き生きと動きつづけ、縫い付けでもしない限り止められそうにない舌の動き。僕は、この柵の中の世界で絶対的な存在である教官が、晴士の一言で黙り込むところを、何度も見たことがある。
 思えば――、僕が描いてきたのは、一度も会ったことのない人たちだった。僕は、その人たちを知らない。その人たちも、僕を見たことが無い。
 晴士の眼差しは、いなくなった早月と良く似ていた。違っているのは、早月ほど、じぃっと人の顔を見ないことくらいだ。

 三十分もしないうちに、僕はだんだん、気が重くなってきた。キャンパスの上に塗りつけた肌の色が、次第に人の形を取り、晴士に近づくにつれて、どうしようもないくらい、手が震えてきた。
 「怖いよ…」
 「何が。」
 「僕が描くと、みんな死んだような顔になる」
 「馬鹿いえ。俺は生きてんだぞ。見たままを描くのに、なんで生きてるものが死んじまうんだ」
それは最もな叱咤だと思った。僕は思い切って、鮮やかなピンク色で、唇の弧を描いた。今にも開いて、毒の矢をぽんと吐き出しそうなくらい、勢いのある口だった。
 「なあ、知ってるか。遺伝子ってのは、呼び合うものらしいぜ」
ぼんやりしている僕に向かって、晴士は一人で喋りだした。
 「俺は迷信なんか信じちゃいないし、それがどういう類の直感なんだかは、わからない。けど、何でかな、目が合った瞬間に分かったんだよ。ああ、こいつ、俺と同じだ…って」
 「早月のこと?」
晴士は、小さく頷いた。
 「同じ男女の細胞から分かれて、生まれたんだそうだ。そういうのを、兄弟っていうんだろう?」
 「たぶん」
 「この世界には、俺の兄弟が、どのくらい居るんだろうな。もう、いなくなった奴も入れたら。…」
そのとき僕は、鼻に取り掛かっていた。ちゃんと息をして、呼吸していなければならなかった。閉ざされた穴ではいけなかった。強引に、ねじ込むように塗りつけた黒い穴は、あんまりにも勢い良く空気を吸い込みすぎた。それで、顔全体が、奇妙に捩れてしまった。
 「ここにいる何人が、自分たちは兄弟だって、知ってると思う? お前にだって、一緒に生まれた奴が、いるかもしれないぞ」
 「僕には兄弟、いないよ。」
 「本当に、そうか?」
 「他はみんな死んだんだ。両親のどっちかに、遺伝的欠陥があって、子供が出来ても赤ん坊のうちに死んじまうんだ。何千分の一の確率でしか、大人になるまで生き残れる正常な子供ができないって言われたらしいよ。」
晴士は、感心したような吐息を漏らした。
 「無頓着で、何にも知らない奴だと思ってたのにな」
僕は、黙って絵筆を動かしていた。今では、キャンバスの向こうに、頬杖をつく晴士の姿が、はっきり見えた。憂いを帯びて、沈んだ色の瞳が、キャンバスに溶け込んでいた。瞳は今、四つになって、ぜんぶが僕を見つめていた。
 「出来たよ」
晴士は立ち上がり、僕の後ろに来て、絵を眺めた。
 日が傾き始めていた。赤い光が、部屋の片隅を照らしている。
 長い、沈黙だった。

 「似てるな」
晴士は、微笑みもせず、真顔にそう言った。「やっぱりお前、天才だよ。俺、今、すごく感動してる」
 「うまく描けたのは、晴士のお陰だと思う」
彼は口元をもぐもぐさせ、照れた顔で頭をかいた。
 「こいつは、俺より早月に似てるけどな」
 窓の外には、早月がいなくなった晩から、黄色いロープが張られたままだった。星が燃え尽きたあとに焦げた地面に、白い粉が撒かれ、何かの形に――何かの形に、地面を切り抜いていた。
 キャンバスの中の晴士が、いや、早月が、僕を見つめていた。窓枠の向こうに、夜が忍び寄りつつあった。浮かび上がる、ほっそりとした横顔に、僕の記憶が疼いた。

 あの夜だ。
 あの夜、おんなじものを、二つ、見た。

 「あの夜な。早月は、柵を乗り越えようとして・・・死んだんだよ」

振り返った晴士の目は、悲しい光を湛えていた。

 そう、僕はようやく、自分の覚えていた光景の真実の意味を知った。
 あの夜、早月は二人いたのだった。もう一人は、晴士だ。
 晴士が柵の割れ目を攀じ登り、電流の隙間に用心深くロープを結び付け、早月に渡した。早月は晴士の名前を呼んで、ロープを手にした。二人が逃げ出そうとしていることを知っている人は、誰もいなかった。
 僕が見たのは、柵から転がり落ちる早月の体と、燃え尽きるロープの塊だった。
 感電し、体じゅうの毛が逆立っても、なお息のあった彼が、麻痺した体でよろめきながら四つんばいになって歩いているのを、犬だと思ったのだ。
 教官たちが聞きたかったのは、彼が「どこに行ったのか」ではなく、ほかに、逃亡を企てていた者がいなかったか、ということ。あのとき犬の遠吠えのような慟哭を挙げた者、それによって逃亡未遂を柵の内側じゅうに知らしめた、共犯者が誰だったのかということ。

 ――ああ、僕は、何て馬鹿だったのだろう。
 燃え尽きた太陽は、黒かった。深い深い漆黒の輝きを湛えた、この、柵の内側で最も強い輝きを放つ――早月の瞳。
 晴士は知っていたのだ。早月が何処に行ったのかを。どうやって、柵の内側から逃げ出したのかを。永遠に戻ってこないことも…
 「俺たちは、外の世界が見たかった。こんな小さな世界に閉じ込められて一生終わるなんてゴメンだ。ここは、嘘っぱちだらけだ。本当の世界じゃない」
 晴士の叩きつけるような言葉は、やっぱり僕の胸を突き刺した。意味もよく分からないのに、ひどく悲しい気持ちにさせられた。こんなとき、僕はどうしたらいいのだろう。早月を元に戻すことは出来ないし、晴士を鳥に変えて、空に飛ばしてあげることも出来ない。
 僕にとっては、ここが、世界のすべてだった。
 真っ白い殺菌された建物、厳格な教官、母親役の看護婦たち、同じ服を着せられた、さまざまな年齢の子供たち。校庭を横切るだけで往復できる、宿舎と校舎。生まれたときからずっと、ここで、暮らしてきた。ウソでも本当でも無かった。僕に見えていたものは、たぶん、晴士に見えていたものとは、違ったのだろう。

 それから僕は、たくさんの絵を描くようになった。
 見たことの在る風景も、見たことのない風景も、たぶん人から見れば本当だと思えないようなものも。だけどそれは、全部、僕にとっては本当なのだ。ウソ発見器にかけられたって、僕は本当だと言うしかない。
 晴士はどんどん無口になっていった。あの、威勢のいい突き刺すような言葉は、次第に衰えていった。それが薬のためだったことは、ずっと後になって知ったことだ。薬を飲んでも治るはずがなかった。成長するにつれて、細胞が増殖してコピーを重ねるにつれて壊れていく二重らせんを修復することなど、誰にも出来ないのだから。
 ある日、しかつめらしい顔をした教官が僕を迎えに来た。黒塗りの車が建物の外に止まっていて、金持ちらしい人々と、影のように付き従う黒っぽい人々とを乗せていた。
 いつものように裸にされて検査されたあと、僕は荷物を持たされ、建物から追い出された。
 「お前は合格だ」と、教官は僕を見下ろしながら、言った。「環境に適応できたようだ。この歳まで生きられたのだから、問題ないだろう。」
 光の無い視線は、僕を通り過ぎて、どこか在らざる世界を見ていた。

 晴士は、もうずっと前に居なくなってしまっていた。他のたくさんの子供たちと一緒に、いつのまにか柵の向こうに逃げ出してしまったのだ。
 遺伝子がどうにか巧く組み合わさっていた僕だけが、偶然、大人になることが出来た。生きたものを描いて、どうして死人になるのかと晴士は言ったが、絵は生きているのに描かれた人のほうが死んでしまうことは、よくあることなのだと知った。それが、大人になるということなのだと思う。
 絵筆を持って、生まれてはじめて柵の外に出たとき――… あの、クレーンに似た門柱を潜り抜けて、丘に続く道を登りきったとき、僕は、晴士の言っていた「本当の世界」というものを、見ることが出来た。
 といっても、目に映るもの全てを、正しく理解していたかどうかは、自信がないけれど。

 そこは呪われた世界だった。崖の先には、石になった人々がたくさん並んでいて、木々が毒の光を発しながら岩や木にからみついている。そのくせ空は輝いて、昼間なのに月が見えている。平たく引き伸ばされた人の皮を前にして、白い服を着た天使たちが、楽しそうに、ガラスの向こうでダンスを踊っていた。
 そして道は、どこまでも、続いていた。洞窟を越えて、海も、谷も、丘も越えて、僕の知らない遥か彼方まで。


 ああ、なんて広いんだろう。


 僕は不安だった――とても不安だった。あまりに広すぎて、ここには、視線が無い。
 誰かに縋って言いたかった。どうか、僕を見てください。
 見つけてください、たくさんの人の中から、大きな世界の中から。
 そして僕だけを、他の誰かとしてではなく僕として見つめてください。でないと、僕は消えてしまうのです。ここから消えてしまうのです。



 振り返ると、そこには、僕らが今まで居た、柵の内側の世界の全てが見渡せた。

 …小さなひとひらに過ぎない、あの世界。

この作品は、Folio vol.7「見る」参加作品です。


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