06/04(改)

―神話の比較は果たして本当に有効か?

 
 神話や文化を研究する人々の間では、昔から、世界中に散らばる多くの神話には似たところがあり、全く交流のなさそうな他の地域、民族の間で共通するエピソードがある…と、いうことが言われている。類似は細部にわたり、一見偶然とは思えないこともある。太平洋を挟んだ国どうしで同じような話が古くから伝わっている場合、世界中はその昔、どこかでひとつにつながっていたのではないか、という気さえしてくることがある。

 しかし、ちょっと待ってほしい。
 神話を語るのは人間であり、神話について考えるのもまた人間である。だが、私たちが触れる神話とは、生のままのものではなく、私たちの母国語に直され、再解釈されたものであり、場合によっては物語風に書き直されたものである。

 心理学の研究に、記憶の変容(modification of memory content)と、いうものがある。
 「記憶」は「記録」ではない。記憶は現実に起こったもの、体験したものとは必ず異なっている。人は機械では無いのだ。
 たとえば、あなたが道を歩いていたとしよう。家から出て、隣の家に向う途中、あなたは無意識に、周囲の風景を見逃している。目は視界のすべてを捉えているが、視界の端に映っていたカンバンの文字や遠くの空の様子、足元のゴミなど目立たないものについては、記憶にはならず、情報としては破棄されてしまう。
 記憶とは、印象に残ったもの、普段と違うものが編成された、加工済みの情報である。その加工の方法は人によって違う。興味のあるものが印象に残りやすいが、人によって興味のあるものは異なる。それだけでも、記憶には大きな差がつく。
 変化の仕方については、以下の3つが代表的なものとして挙げられる。

1)耳慣れない言葉を、慣れた言葉に置き換えてしまったり、見慣れない光景を見慣れた光景とすりかえてしまうような「標準化」
 2)本来はまとまりのない記憶に、無意識のうちにまとまりをまたせてしまう「水準化」
 3)特定の部分を強調し、細部を省略してしまう「強調化」の三つが、よく言われる変化の形態だ。

 「神話」とは、一般的に、既に死んでしまった信仰の記憶である。
 北欧神話はキリスト教化後の北欧では信仰されなくなった。
 ギリシャ神話はローマ神話に引き継がれるが、これも既に一般には信仰されなくなっている。
 マヤ神話も。ケルト神話も。すべて、今は終ってしまった物語である。その神話をもとにした宗教を信仰していた人は今はいないし、神話の記録は例外なく「文字として」記録されたものだ。だが、その記録者は誰だったのか。

 既に信仰が消えてしまった時代、もしくは消えようとしている時代の記憶は、果たして、神話の生きていた時代と同じものなのか。あるいは、信仰していた人々とは別の人々が記録したものは、どれだけ正確に、信仰していた人々の記憶を伝えているのか。
 すべての神話が、生きていた頃のまま正確に記録されているとは限らない。”記録者の記憶によって”改ざんされた後の結果であるかもしれないのだ。



 そして、問題となってくるのは、神話を語り継ぐ者の記憶ばかりでなく、神話について考え、構造や系統について考える人々の側の記憶でもある。

 人は必ず、なんらかの処理方法を使って、自分の記憶に刻みやすい形に作り変えている。覚えやすい部分/単語だけが記憶に残り、残った部分をつなぎあわせるための欠けた部分は、自分が今までに覚えている話で補ってしまう。

 各国様々な神話を比較しようとすると、他国の神話、異文化の神話を見聞きすることになる。耳慣れない言葉はたくさん出てくるだろうし、単語の羅列や文脈に合わない場面展開、詳細に描写する意味があるとも思えないのにやたら長い場面など、そのままだと物語として面白くないものも多いはずだ。

 そうして記憶が蓄積されていくにつれ、いつしか物語は、記憶の中で変貌していく。覚えやすいよう形を変え、知らないうちに改ざんされて、よく知った雛形に押し込められていくのである。
 つまり、世界各地の神話が「似ている」と感じるのは、それらを自分の記憶の中で類似するもののように改ざんした「結果」であるかもしれないのだ。果たして、その神話は「生のままで似ている」のか、「論じる者の記憶の中で故意に似せられたもの」なのか?


 自分の所属する文化以外の神話が、記憶の中でいかに変容しやすいかを調べた実験が、実際に行われている。(Bartlet.F.C.,1932)

 この実験では、イギリスの大学生たちに、北米インディアンの民話のひとつ「幽霊たちの闘い」というものを読ませ、その内容を、読んだ直後、数週間後、さらには何年も後というふうに繰り返し再生させることを行っている。
 この民話は、文化的背景の異なるイギリスの若者たちにとって、全く馴染みのない内容である。結果として、十分理解できない部分も多く、それら部分は省かれたり、単純化されたりつじつまを合わせるため実際には無かった話を付け加えるなどの変容が多く見られた。また、耳慣れない言葉を、よく知った言葉、概念と入れ替えるといった現象も見られたという。
 (たとえば「シーカヤックでアザラシ釣りに出かける」場面が、「ボートで魚釣りに出かける」場面に変わるといったもの。アザラシ釣りは馴染みがないが、魚釣りなら場面が想像しやすい。)

 ウソだと思うなら、何か自分になじみの無い神話の本を一冊手にとり、なるべく理解しにくい、面白みをあまり感じないような話をさらりと読んで、一週間ほどのちに思い出してみるといい。よく分からない単語や概念の出てくるものが最適だ。紙に書いた粗筋は、もとの神話からどれだけかけ離れているだろうか。

 記憶とは、外部の情報が記憶として刻み付けられる時点で既に元の情報とは変わっているものなのだ。さらに、思い出すときにも、それまでの自分の経験に基づいて、筋道の通る話になるように再構成している。インプット・アウトプットともに所属文化、および経験の影響を受けているのだから、個々の文化に対し相当な知識や理解力を持たなければ、異文化の神話の「意味」を理解することにはなり得ない。つまり世界中の神話を正確に比較して周ることは、かなり難しい。



 問題はまだある。表面に見える行動は同じでも、この行動に付加された意味は違う、というものである。
 人間は真空の中で生きているのではなく、文化的意味の充満した「意味空間」で生きている。国でもない、民族でもない、同じ「意味」を共有する文化圏というのが、この世界には目に見えず存在するのである。
 分かりやすい例でいくと、「ジェスチャー」だ。日本人がポリポリと鼻をかく照れ隠しのジェスチャーが、よその国では侮辱の意味になったり、危険を意味する手振りになったりする。この動きが「照れ隠し」である国の人々は、「侮辱」である国の人の怒る理由を知らないし、「侮辱」である国の人は、「照れ隠し」である国の人が、なぜ笑いながらそんなことをするのか理解できない。これを文字に直せばなおさらのことだ。なぜそんな行動を取るのかが分からない。つまり、「正しく記憶出来ない」。

 もともと言葉であったとしても同じことだ。
 日本人の学生とアメリカ人の学生が、うどん屋に行ったとする。日本人学生が「たぬきがいい? きつねがいい?」と聞く。アメリカ人学生はたいそう驚くだろう。「日本人は、狐や狸をふつうに食べているのか?」……
 この勘違いは、互いに異なる意味空間に属する者どうしだからこそ発生する。油揚げの乗ったうどんが「きつね」であり、天かすの乗ったうどんが「たぬき」であることを当たり前だと思っている日本人同士なら、絶対に発生しない。
 当たり前に思えていることでも、他の意味空間に属する者にとっては奇妙で、理解しがたいことは多い。それというのも、自分の属する文化圏の意味に従って相手の行動を理解しようとするからで、相手の行動が実際は何を意味しているかを知らないからである。

 神話の場合も同じだ。
 神話の中の、似ているように思われる「その行動」は、果たして、含まれる意味も似ているものであろうか。
 逆に言うならば、表面的には似ていないように思える部分も、意味を考えると実は他の話と似ているのではないか。
 たとえ目の前の文献資料を完璧に記憶したとしても、「理解」していないのであれば論じることは出来ない。神話の比較は文化的背景の上に立つ作業である。よって、神話を語り継いで来た人々のこと、さらには、その人々の生きた時代背景までも広く眼中に収める必要があるのではないか…

 もちろん、それは理想に過ぎない。
 すべての国の言語、文化を一人の人間が習得するなど不可能に近い。しかし、それを言い訳にして、より深い考察を試みることなく神話の表面だけをなぞっているとしたら、どうか。それはままごとか、お遊びか。そのような作業に意味があるのか。
 そもそも、「神話の比較」という作業に何の意味を持たせてやっているのか。比較の対象となる、双方の文化を理解すること、あるいは、そうできないまでも理解「しよう」と務めることは必須ではないのか。
 不可能だから、という言葉は言い訳になってはいけない。不可能かもしれないことは、そう「しよう」と務める努力を放棄する理由にはなり得ない。

 本稿は、類似する神話の存在そのものを否定するものではない。
 だが、現実には、今言われているほど多くの類似が見られるとは思えないのも事実である。まして世界がかつてひとつであり、神話体系の起源がひとつである、というような話は在り得ない。人や情報の流れによって伝達されるものである以上、神話モチーフの類似は、知られざる過去を知るひとつの指標ともなる重要な研究だ。そのためにも、うわべだけの類似に気を取られて深い意味を取りそこなうようなことなく、「真の類似」を見つけ出してもらいたい。

 理想ではあるが、あまりに軽率に神話の比較が行われているように感じる昨今では、そう思わずにはいられないのである。


◆資料◆重野純 キーワードセレクション「心理学」 新潮社
      箕浦康子 文化心理学 理論と実証(第一部第三章) 東京大学出版会
      Bartlet.F.C.,1932 Remembering:A Study in Experimental and Social Phychology.Cambring University Press. 

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