06/08

―嘘つきなロールシャッハテスト

 

 このテキストは、かつて心理学コーナーに計算していた時に様々な物議を醸し出したものだ。反応してきたのは主に臨床心理学を学ぶ人、あるいは現在、臨床心理士をしている人で、「ロールシャッハテストは実際に現場で使っている」「ロールシャッハテストは有効なものである」と、いう内容であった。

 しかし、このテキストは、ロールシャッハテストの曖昧さを批判するものであり、現在第一線にいる人の、まさにその概念こそが危険であることを警告するためのものなのだ。
 他サイトからリンクを貼られて面倒だから移動したのであり、多少書き直しはしても、私の主張は学生時代から変わらないことを、最初に明記しておく。


■どこまでが「正常」、どこからが「異常」?

 ロールシャッハテスト、というと、心理学やってない人でも名前は知っている大変有名な調査方法だ。紙にインクを垂らし、二つ折りにして広げ、あらわれた不規則な図形に対しイメージしたものを語る。「これは蝶々に見えます、これは怪獣です…」など。
 このような方法はパーソナリティ検査の一種で「投影法」と呼ばれ、他にも文章完成法(文章の続きをつくる)や、カードに描かれた絵を見て物語をつくる絵画統覚検査などがあるが、ここでは、ロールシャッハテストについてだけについて語る。

 かつて「心のエックス線」などと呼ばれ、人の深層意識をくみ出すとされたロールシャッハテストだが、実はもう何十年も前から、「これインチキじゃん、なんもわかんないよ」と、いう批判が出されている。考えてみれば当たり前だが、こういう検査の信頼性や妥当性はとても低い。何故かというと、基準がはっきりしていないからである。「ここからここまでが異常、ここからここまでが正常」という、明確なラインが引きにくい。

 驚くべきことに、ロールシャッハテストには明確基準など無い。まあ当たり前なのだが、ひとつの絵柄を見て人が出す答えなど千差万別、染みを分解して部分部分で反題するか、全体を1つの絵として見るか、など、多少の傾向は読めたとしても、それ以上ではない。
 「このテストの試行には熟練を必要とする」などという曖昧な言い方をしているが、なんのことはない。熟練すれば、人が正常の範疇に入るか入らないか、何か決定的な思考の欠陥を持っているかが分かる、というだけのことである。逆に言えば。判断に失敗した場合は「熟練が足りなかった」と言えばいいだけの話で、これまた何とも責任の所在が曖昧だ。

 信頼性と妥当性がなければ、そもそも、その心理テストには意味がない。
 とは、学生時代にイヤというほど教え込まれた鉄則だが、最悪なことにロールシャッハテストには、そのどちらも欠けている。

 信頼性とは、いついかなるときも同じ結果を出す---健全な人はいつでも健全と見なされ、精神異常の人はいつでも精神異常と判断される、ということだが、残念ながら、ロールシャッハテストは、しょっちゅう間違って健全な人を精神異常と判断したり、逆に精神異常者を見逃したりする傾向がある。日経サイエンス 2001−8、「あてにならないロールシャッハテスト」には、雑誌記者が恣意的な回答で実験者をいかに欺けるか、実際にやってみた結果が掲載されていて実に面白い。

 妥当性とは、その検査が測定しようとしているものをきちんと反映できているかということだ。モノサシが間違っていれば、計った結果に何も意味がないように、ロールシャッハテストが精神異常を見抜く検査であると言えないのなら、そんなものやっても無駄ということになる。
 しかしロールシャッハテストが何のモノサシといえるのか…。
 精神の異常・正常を見分けるためのモノサシ? 攻撃性の高さ? 想像力?
 いずれでもない。
 普通の質問をしても答えてくれない患者に、想像力を働かせで自由に回答させるものだから、話題づくりくらいにはなりそうだが、だったら患者と二人で映画でも見たほうがマシな気がする。

 このように、ロールシャッハテストは、信頼性・妥当性両方において不十分だといわれている。にもかかわらず、今なお各地で使われているのだから、無茶な話である。
 「間違いが起こるのは熟練した専門家が判断しないからだ、未熟ものが判断を出すからだ」というが、果たしてそれだけなのか? 
 そもそも、熟練した専門家とは、一体どのような定義でもってそう呼ばれるのか。もし、「多くの患者を扱ってきた、経験豊かな臨床心理学者」という点で呼ぶのであれば、それは、ロールシャッハテストの扱いに慣れているのではなく、単に「人生経験が豊かなので人の心的傾向がわかりやすい」、ということ、…つまり、何も専門の臨床心理学者でなくとも、ご近所のおじーちゃんおばーちゃんに相談事を持ちかけているのと同じことになるのではないだろうか。
 何を知っていれば専門家、熟練者とみなされるのか、それすらも基準が曖昧なのでは話にならない。

 そもそもロールシャッハテストとは、精神異常を見抜くためのテストではないのではないか、と、私は疑っている。
 本来、インクのシミには何の意味もない。そこに故意に意味づけしようとするのだから、その人の持っているスキーマ(経験的知識の体系)や深層意識があらわれることは大いに考えられるが、それは科学的に実証できるものではないし、基準を決めることも出来ない。
 たとえば、一般的に言われる「インクの染みの黒さに反応するのは、うつ病の傾向がある」を基準として証明するためには、インクの黒さに言及してイメージを膨らませた被験者に、うつ傾向があることを統計をとって証明しなくてはならないが、実際は、そのような証拠は得られていない。
 このテストによって分るのは、その人の物の見方の「方向性」ではないだろうか。たとえ、「異常な」物の見方・考え方をしていると分かっても、どのあたりから異常になり、どこまでは正常なのか。その「程度」、正確なボーダーは設定されていない。
 最終的に、判定は個々の精神医に任されることになる。


■不適切な検査方法

 人のイメージは、人の数だけあると言っていい。それにマニュアルを作ろうとすること自体、ムリがある。それだと、突飛なイメージを持っている人や、想像力豊かな人まで精神異常にされてしまう可能性があるのではないか。
 予期しない回答があった場合、そこのところをどう判定するのか。結局は、これも個々の精神医の独自の判断に任されてしまうのではないか?
 被験者の反応に対する明確な答えを出せないという点で、ロールシャッハテストの抱える問題は大きいと言える。

 さらに、「イメージ」という曖昧なものを、同じく曖昧な言葉によって回答し、判定するというところに曖昧さがある。
 たとえば夢を言葉にすることを考えてもらいたい。純粋なイメージである夢の中には、うまく言い表せないものもたくさん含まれる。よって、それら言葉に直せないものを切り落とし、文章化した時点で、すでに夢は、自分の見たものと別物になっている。
 感性は言葉では表現できない。言葉として回答を返せても、それは、その人が実際に感じたものとは大きく異なっている可能性がある。
 しかし、外側からでは、「異なっている」ことは証明できず、「どう異なっているのか」は、分からないのである。

 その人が感じているものを、言葉によって正確に表現することは不可能だ。
 人によって言語スキルには差があるし、大人と子供でも違う。同じことを指すにしても、選び出す単語が違うだけで回答の印象は違ってくる。正しい単語を選んだかどうかも分からない。
 そんな回答に、果たして意味があるのだろうか。意味があるかどうかも微妙な回答から、精神異常かどうかなど判断できるものだろうか。ここに、「ロールシャッハテストは妥当性が低い」といわれる大きな理由がある。そして、どんなに精度を高めても、この問題点を根本的に解決することは出来ないだろう。


■インクと紙の無駄

 ロールシャッハテストふくめ、投影法の様々な技法については、その妥当性と信憑性についてかなりの研究が成されているが、答えはどれに対してもだいたい同じ、「信用できない」という、実に冷酷な判断が下されている。
 もちろん完全に役にたたないわけではない。当たることもあるだろう。近代科学に沿った、統計的処理による心理学では扱えない側面も含まれるだろう。だが、実際に使うとなると相当の注意が必要であり、あまり実用的できないというのが現状である。

 よく使われる「言いわけ」に、「ロールシャッハテストが単体で使われることはない。ほかの様々な試験とあわせて用いられるのが普通だ」というものがあるが、私はこれにすら懐疑的だ。他の試験でフォローではない「何を」補うためのロールシャッハなのか。他の何でもなく、ロールシャッハテストを組み込むのは「何故」なのか。どうしてもそれが必要か。
 ただの、患者との話題づくりじゃないのか…?
 やれるテストは全部やっときゃ、あとで結論出しやすいだろっていうだけなんじゃ…?

 臨床家たちは、「熟練」や「経験」という言葉に逃げ込まず、もっと信頼できる臨床的テストを開発すべきではないのか。絵がヘタな人をこぞって精神異常と判断してしまうかもしれない描画法や、字がヘタだと人格異常とみなされるかもしれない筆跡鑑定を、専門家が信じている、などという一般人の誤解と不安を、とりのぞいてやるべきではないのか?
 臨床心理学を学ぶ者は、これまでの投影法を頭から信用してはならない。経験で人が判断出来るのなら、それは心理学ではなく社会的な、対人スキルの一種である。純粋に、科学として、心理学としての検査方法を開発してほしい。
 ロールシャッハは紙とインクの無駄、さぁ、いい加減に迷信の時代から離れようじゃないか。


■おしまいの言葉

 いつだったか、誰かが言ってたんだ。「外科医はざくざく切って開けばいい話。目に見えるんだから楽なもんだよ。だけど、精神科医は、何もわかっちゃいないんだ」って。そりゃあ人の心なんてものは目に見えないけどね、脳みそ切り開いたって心はどこにもありません。
 それは脳みその「活動」そのものを表す言葉なんだから、物体じゃない。

 で、その誰かが言ってたんだ。心ってのはパソコンで言うと処理の部分なんだけど、脳みそはハードウェア、記憶がソフトウェアの部分なんだよ。ほらWindowsでよくバグが出るじゃない。あれと一緒でさ、でかいハードに大量に情報つっこんでくと、いつのまにか不整合とか起きてバグっちゃうんだよね。


           脳容量の大きい生き物は皆、どっかが狂ってる


 大量のシナプスを整然とならべて、一つのバグもなく制御できるとでもお思いか。
 皆どっかバグってる。その表現の仕方と、制御のレベルが異なるという、ただそれだけの話です。どこまで自己修復可能で、どこからが再インストール必要なのかって? そんなの、Widowsの自己診断に任せようなんて、思うのかい?

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