04/08

―学問のススメ(2)

 

 インターネットの世界が発達するにつれて、ウェブで情報を探す人が、増えてきた。
 そこそこインターネットをされてる方なら、既にご存知のとおり、インターネットでは欲しい情報は、探し方さえわかっていれば、大抵は手に入る。必要なら、掲示板で誰かに聞くことも可能だ。
 実際に、そうして知識を得てきた人も多いのではないだろうか?

 しかし、前のページの最初に書いたように、オレの考えでは、「自分から学ぼうとする」態度がなければ、単に頭の中に無駄知識を溜め込んでいるだけに過ぎない。
 もちろんウェブで情報を探るのも「知ろうとする」行為とみなすことが出来るが、答えだけを求め、そこに至る思考を怠るのは危険だ。
 たとえばオレは、このサイトのエジプトコーナーにエジプトの歴代ファラオ王名表をのっけている。
 だが、その王名表は、学者がつくった「多分これが正解なんじゃない?」という一つの説に過ぎず、実は違っているのかもしれない。違っているとすれば、どこが違う可能性が高いのか。そもそも、ファラオの即位順というのは、何を根拠に決められたものなのか?

 そういうところを疑って欲しい。
 ウェブで情報発信をしている人間は、専門家ばかりとは限らない。シロウトが大半だ。(オレもシロウトだ)
 間違っていても責任なんか持てない。

 そうやって疑うこと、色んな情報源をさぐること、何が正しく、何が疑わしいのかを自分で決めること。

 そして、一方的な情報の吸収だけに終わらないことだ。
 インターネットのいいところは、情報発信源の人と、気軽に、直接、連絡を取り合えるところにある。問いかけ、答えてもらえといい。運がよければ、その会話から、一方的に情報を受けていたときより遥かに有益なものが見つかるだろう。

 ただし…知りたいとは思わないことを、ただちょこちょこっと調べてみるヒマつぶしとか娯楽のたぐいであれば、そこまでする必要は無い。ちょいちょいと調べて、かじってみるだけでよい。ただし、それでは自分の中に大したものは残らない。

”さして興味もないことを興味半分にほじくりかえしてるだけじゃ、大したものは得られない。”
と、いうわけだ。

 オレは、全ての探求行動の原動力は「興味」だと思っている。
 大学のレポートのために仕方なしに情報を集める人、就職のためだからとつまらないマニュアルを覚えこむ人、テストのために丸暗記する人…ただそれだけで終わるんであれば、無駄のきわみだ。必要に迫られてやる勉強以外は、何もしないのか?  それでは、永遠に受け手のままだ。自分から、何かを知るために動き出したことにはならない。

 そもそも学問とは、将来の役に立たない場合がほとんどだ。
 なにしろ、学校で学ぶのは考え方や基礎知識など土台部分だけで、本当の勉強ってのは、学校で習ったことの上に、自分の力で積み重ねていくもののことを指すんだから。
 学歴にしろ、成績にしろ、将来のためには、学校で学ぶことだけでコトたりるよな?
 それ以上のことに興味を持って時間を割けば、学校での成績が下がるかもしれない。

 学問を「将来のためになるから、やる」と、いうのは、むしろ間違っている。
 たとえばオレが、学校の社会科の時間をサボって図書館で三国志を読んでいたとしよう。
 社会のテストの結果は、散々かもしれない。すると三国志を読むことは、将来のためになる勉強では、無いと看做される。

 必要だから知りたいと思うんじゃない。楽しいと思うから、興味を持つから、何かを学ぼうとする。ただし、そこには必ず犠牲がつきまとう。

 ぶっちゃけ理系の分野や一部の専門を除き、学問ってのは将来の役にはたたない。
 文系知識など、ただの脳みそのコヤシだ。一定の日本語能力と、一般常識さえあれば、専攻が日本史だろうがドイツ文学だろうが心理学だろうが、社会人になって必要とされる知識や技能とは全く関係ない。
 無駄だ。

 しかし、その、無駄と思えるものが存在できるのが、社会の余裕というものだ。
 社会に出て役に立つわけではない歴史や文学も、人が人であるためには必要な分野だとオレは思う。

 だから、オレは、「将来の役に立つから」という理由で何か勉強している人に懐疑的だ。
 理由は「好きだから」「知りたいから」で、いいんじゃないか?

 学ぶこと、考えることは、己に見える世界の地平線を広げること、見える世界を理解すること、彩を与えることだ。
 新たなことを知れば世界の見え方が変わり、見える範囲も広がる。
 そのために、その新しい世界が見たいために、本を読んだり、あれこれ考えたりして、無駄なものに情熱を傾けている。

 好きでないなら、何かを知りたいだとか、賢くなりたいだとか、ンなことは考えないほうがいい。学問とは、差し迫った何かの目的のためではなく、純粋に自分のために行うべきものなんじゃないだろうか・

 さて、あなたは、将来の役にはたたないと分かっているものを、たとえ親兄弟や友人に「そんなもの無駄だ」と言われても、誰も認めてくれなくても、「いや、自分には必要なんだ」と、言えるだろうか。
 あなたには、それが本当に必要なものなのか?

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