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初期王朝時代 第1王朝

ホル・アハ

Hor-aha

在位年代;〜2870年頃
ホルス名;ホル・アハ(戦う鷹/闘う王)
ネブティ名;メン
マネトー呼称;メネス

王朝の首都;メンフィス  
埋葬地;アビドスB10、B15、B19
家族構成;父/ナルメル 母/ネイトヘテプ 王妃/ベルメル・イブ

のちに「白い城壁の町」と呼ばれることになる、古代都市メンフィスを建造し、首都と定める。この位置に新たな首都を持って来たのは、上下エジプトのちょうど真ん中あたりだったから。
メンフィスは、メンフィス神学発祥の地であり、古き神のひとりプタハの聖域として、その後、数千年に渡って人が住み続けることになる。

また、下エジプトのデルタ地帯に、戦の女神ネイトを祀る神殿を建立。これより後、彼女への信仰はローマ時代まで、このデルタ地帯で継続されることとなる。

ホル・アハは、カバ狩り、ワニ狩りなどを好んだ勇ましい王だったようだが、年をとってから狩りに出かけたことが不運に繋がったようで、死因は、カバに襲われての水死だったとされる。(伝説によれば「62年の在位ののちに、カバが彼を連れ去った」)

■殉死について
この時代、エジプトでは「殉死・殉葬」が行われており、王に仕えた従者たちは王とともに殺されねばならなかった。王墓の壁の外側には、毒を与えられて死んだ、または絞殺されたと思われる6人が埋葬されており、うち1人は4、5歳の子供だった。子供は王の愛した息子か娘であった可能性があるという。また、王の墓の側からは35基の従者たちの墓が見つかっているが、王と同時に死んだかどうかは分からない。従者たちが亡くなってから順次埋葬された可能性もある。<参照:National Geographic 2005年4月号 特集「古代エジプトの聖地」>
殉死の習慣は第一王朝のみで、第二王朝に入ると行われなくなる。

・古代エジプトの殉死の習慣についての情報とりまとめ。


■聖地アビドスについて
アビドス、サッカラといった古い都の名前が記録にあらわれてくるのがこの時代。のちにオシリス神の遺体があるとして信仰を集めるようになるアビドスは、この時代には既にエジプトの人々の信仰中心地のひとつだったようだ。
また、ナイル河を通じた都市間の交易が盛んになっており、ホル・アハ王も、流通産業に介入することで多くの富を得たようだ。この富が、メンフィス建造へと繋がったのだろうか。


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