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末期王朝時代 第26王朝

アプリエス(ウァフイブラー)


在位年代;前589年頃-570年頃
誕生名; ウァフイブラー
(永遠なる太陽神ラーの魂)
即位名; ハァイブラー
(太陽神ラーの魂は歓喜する)
ギリシャ語名; アプリエス Apries
治世; 19年
王朝の首都;サイス 
埋葬地;サイス 
出身地; サイス

家族構成; 父 プサメティク2世

「アプリエス」はヘロドトスおよびディオドロスによる名前。
これまで安定してきていた第26王朝を、判断ミスで失う残念な王様。

アプリエスの時代には新バビロニアが台頭する。紀元前588年、新バビロニアの王ネブカドネザルとシリアの覇権を争おうとしたこの王は敢え無く敗北。その後、前586年にユダヤ人に対しては二度目の「バビロン捕囚」が行われ、逃れた多くのユダヤ人がエジプトに流入する。ここでムダな戦いをせずに巧く立ち回れば、ユダヤ人王国の後継としてパレスティナを支配することは出来たかもしれないのだが…。

紀元前570年にはリビアにおいてギリシャ人とリビア人の争いが勃発。アプリエスはリビア人を支持して兵を送るが、それまで傭兵として雇い、交易上も友好関係を結んでいたギリシャに喧嘩を売るのはあまり得策ではなかった。兵士の士気も上がらず、戦況は混乱し敗北どころか王に対する反乱も起きてしまう。その反乱鎮圧のために送り込んだ将軍イアフメス(かつてプサメティク2世の時代に、ヌビア遠征を指揮した将軍でもある)は、反乱の鎮圧どころか逆に反乱軍の頭領となる始末。人望はなかったらしい。

アプリエスは逃走し、バビロニアの助けを得て王座を取り戻そうとしたが敗れて殺され、その体はサイスに運ばれて埋葬されたといわれている。この出来事は「エレミア書」の44:30に「わたしは、エジプトの王であるファラオ、ホフラを、その命を求める敵に渡す」と書かれている。
死亡は紀元前567年のこととされる。


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