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新王国時代から王朝並立時代への移行



第三中間期への移行は、新王国時代の終わりから、既に始まっていた。

新王国時代、第20王朝最後の王、ラメセス11世の治世23年に、軍人あがりのアメン大司祭ヘリホルが、アメン信仰の中心地テーベにおいて王と同等の権利を主張した、テーベ神官国家を建国する。(建国というよりは、神殿の持つ権威が王の権威を否定しただけと言うべきかもしれない。)
神殿にはもともと、神殿が所有する土地があった。お布施などによる財力もあったし、信仰の中心として、人々の信頼も集めていただろう。足りないものは軍事力だけだった。それをもたらしたのが、軍人から神官へと転職した、ヘリホルの存在だったのではないか。

この時代、テーベ周辺では内乱が相次ぎ、王は首都を離れ、遠くペル・ラメセスの地にいた。テーベは王のものではなく、神官たちのものとなり、その周辺は王の権力の及ばない土地になっていたのだ。

テーベの神官国家は、第20王朝の潰えた後、100年以上も続く。日本でいうと堺が商人国家として半独立を保っていたようなイメージだろうか。第20王朝の王たちには上エジプトまで遠征する力がなく、エジプト北部を拠点として下エジプトを支配することで満足するしかなかった。逆にテーベの勢力も、わざわざ自分たちの守護神(アメン)の居る土地から遠く離れた地域まで支配下に置こうとはせず、上エジプト支配だけに甘んじていたように思われる。
かつてテーベにあった、第20王朝の後継となる第21王朝は、新王国時代の栄華の象徴たる町、ペル・ラメセスからさほど遠くないタニスを王朝の拠点として、テーベ神官国家とほぼ同じ時期まで続いた。


次に台頭するのが、第20王朝最後の王、プスセンネス2世の養子で、リビア人の血を引くシェションク1世だ。シェションク1世の時代に、テーベ神官国家と、第21王朝は吸収され、再び一つの王朝に束ねられる。
新王国時代には、リビアからの移民が追い払われていた時期もあったが、長い時間を経て彼らのいくばくかはエジプトの民と一体化していたらしい。
シェションク1世から続く数代の王たちは、国土を広げることに力を使い、国境線を東のシリア方面へ大きく広げた。
しかし、この時代も、相変わらず上エジプトは神官たちの支配下にあったようで、かつて王の支配が及ばなかった時代のように、各ノモスの主要都市が小国家を形成していた。

第三中間期は、第二中間期のように「三国時代」では、終わらなかった。国は幾つにも分裂し、かつてヒクソス人王朝に支配されたときと違って、エジプトのほぼ全土が、クシュ、リビア、ペルシアといった国々にかわりばんこに支配された。つまりエジプト人自身が、エジプトを支配する力を失っていたということだ。
混乱した王国の運命は王国の崩壊をもたらし、ペルシア支配の後、やがて最後の栄光、末期王朝時代へと続いていく。

ちなみに、本によっては再統一された第26王朝からあとを「末期王朝」として分類している場合もある。


「マー首長国」「リブ首長国」は、リビアからの居住民が作った集落。
便宜上「国」とつけているが、実際は国家というより単なる不可侵の集落だったような感じがする。
この部族を懐柔し、あるいは何らかの形で信頼をとりつけ、吸収して合併に成功したのが第26王朝。かつてのファラオたちのように、戦争によって力づくで吸収したわけではないらしい。

まぁそんなワケで、現代のエジプト人には、まず間違いなくリビア人の血も入ってます。
(なお、リビア人の移住自体は新王国時代後半から始まってます。)