灰色の町の守護者…22


 大慌てで町はずれまで戻って来た時、空を覆っていた藍色は西の空に去り、東の地平線は、太陽の船の近づく白に祖染まっていた。
 「パケト!」
明るくなった地面の上に、彼女の姿はどこにもない。
 「パケト、まさか…」
胸が締め付けられるような思いがした。神は、死ねば跡形も無く消えてしまう。もしかして、彼女は…。
 「おう、やっと戻ったのか。遅いぞお前」
 「えっ?!」
振り返る。
 「そっちじゃない。ココだ、ココ」
 「あ…」
見上げて、ようやく彼は気がついた。白っぽく、光る三日月状の船の上に腰掛けた、見慣れない少年がパケトを抱いている。姿は、人間と同じだ。けれど、人間が空に浮かぶはずがないことくらい、分かっていた。
 さっき出会った人物とは違う。自分たちと同じだ、と直感した。
 「ヤバかったけどな、ま、なんとかなったな。さすが僕様。しばらく人間に祈らせりゃー治るさ。」
輝きを失った船が、するすると地面に下りてきた。少年の膝の上に抱かれたパケトは、目を閉じて、眠っているようにも見える。
 「あの…。」
 「礼なら要らねーぞ。たまたま通りすがっただけだ。…ま、倒れてんのがキレーなねーちゃんだったから助けたっつのもあるんだけどな。」
 「はい、でも、あの、あなたは…。」
 「月の神、コンス様よ。おばか」
うっすら目を開いたパケトが、疲れたような、安堵したような、ぶっきらぼうな声で呟く。
 「…でも良かった。アンタが無事で…。」
言って、再び目を閉じる。すう、と寝息が聞こえた。ぽかん、としているメフェカトは、目の前の少年と、空と、パケトとを見比べるしかない。
 月?
 冷たく、いつもそしらぬ顔で空を過ぎっていく、あの月…?
 コンスは、にやっと笑って、彼女の体をメフェカトの腕に押し付ける。
 「あんまり保護者に苦労させてやんなよ。せめて癒しの力くらい覚えとけ、僕様みたくな。」
東の空を振り仰いだ、夜を過ぎる月の神は唐突に明るい声で怒鳴った。
 「あーあー。夜が明けちまった。これじゃ月の船は使えねーな。しゃーねぇ、こっから飛んで帰るかー!」
言うなり、その姿は銀色に輝く一羽の隼に変わる。
 夜明けの最初の光が谷間に差す瞬間、飛び立ったその翼は、眩しく金と銀とに輝いて消えた。
 日が昇る。太陽の船が、再び、東から西へ向かっての航海を始める。一日のはじまり。そして、何か、新しい……。
 腕の中のぬくもりが、自分の鼓動と重なる。
 「パケト?」
 「…なに。」
 「僕、もっと強くなる。戦うのは嫌だけど、誰かを傷つけなくても戦えるようになる。パケトに迷惑かけたくないから。」
 「…言うじゃない。そういう一人前な口は、泣き虫が治ってから言いなさいよね。」
小さく笑いあった神々は、まだ少し幼く、自分の力を知らない守護の神と、灰色の毛並みをした、気まぐれな切り裂く爪の女神だった。
 人は町をつくり、守護者たちを求める。風景は変わっていく。
 神々も、人ともに変わってゆく。

 それは、ひとつの終わり、新しいはじまり。
 この谷は、きっと、もっといい場所になる。人にとっても、この谷間に住む多くの忘れ去られし精霊たちにとっても。
 メフェカトは、その名を知っていた。人が呼び、人だけが可能な、大地を目覚めさせる呪文のような名を。


 「---コンスが手を貸した?」
伝令の神ウプウアウトの前には、白い冠を戴いた女性が、ゆったりとした玉座に座っていた。
 そこは、ネヘブという名の古えよりの聖都、ナイル上流の地域を統べる女神の神殿だった。
 この辺りの町や集落の神々は、この神殿の女主の直接の支配下にある。
 「珍しいわね。あの面倒くさがりが自分から地上に降りるなんて」
 「…ネクベト、それ言い過ぎ」
側にいた別の神が苦笑する。手には、パピルスの巻物がある。知恵の神と一部の人間にしか扱えない、聖なる文字が書き連ねられた魔法の書だ。
 「相手が女性じゃなかったら、手を貸さなかったかもしれないけど。…彼なりに、いちおう心配はしてたんだと思いますよ。」
 「いちおう、ね。今さら言うでもないけれど、…本気なの? トト。 あの町には…。」
上エジプトの守護女神、ネクベトは、透明な視線でちらりと知恵の神のほうを見る。白にも、銀にも、あるいは透明にも見える髪と羽毛が、この女神の象徴する色だった。
 「もちろん本気です。重要だからこそ、彼に任せるんですよ。神々にとっても、人間たちにとっても、一つの転機になる町、だからこそ…」
 「『生まれたて』で、何も知らない無垢な者に任せるのね。そのほうが公平だろうと?」
 「…ええ。でも、それだけではありません。」
彼は、微笑んで、言った。
 「一体誰が、人だけでなく、神自身のために涙することが出来るだろう。誰が、存在という枠を越えて、人に害なす者にまで、情けをかけてやれるだろう…。自分の内にある闇を見つけ、受け入れた者だけが、怒りや憎しみに支配されずにいられる。」
 「相変わらず、物知り顔ね。それでは、あなたはここから先の未来も予測できるのかしら? 何か、企んでいて?」
 「さあ。それは---」
言葉を濁す彼の表情には、僅かに翳りがあった。
 この知恵の神は、知っていた。
 人も神も、すべてが変わり行くものである以上、決して未来は定まらないものなのだと。

 増水期のおわり、人々は、川の流れの運んできた黒土の上に種を撒く。乾いた大地に緑が芽生え、日差しの中で、再生と実りの季節が始まる。
 パケトはいつものように丸くなって日向でのんびりとまどろみ、メフェカトは、神殿の入り口で通りを行き交う人々を眺めている。石切りの音の止んだ谷間には、熱い日差しが降り注ぎ、人々は額に汗を滲ませる。生きている証拠だ。そんなつまらないことでも、なぜだか嬉しく思えるときもあった。

 あれから少しあと…
 人々は、神殿の中にもう一つ、少し小さな像を作って黒い石の像のかたわらに添えた。それは、町の近くで取れる、灰色の、固い石で出来ていた。パケトに似せた猫の像は、本人曰く、「ぜんぜん似てない、もっと美人につくるべき」だとか。文句をつけられたメルカは、ただ、苦笑しているしかなかった。
 人々にとっての守護者、悪しき精霊たちから町を護る者。

 そして、その神殿の傍らには、小さく、もう一つの神の像が刻まれた。
 人々は、その意味を像をこう呼んだ、「マアディ、大地の守護者」と。
 豊かな実りと、ゆるぎない大地を司る大地の化身として。


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