その夜は、あまり穏やかには過ぎなかった。
日が暮れてすぐ、神殿の中で少しうとうととしていたメフェカトは、大勢の人の気配で目を覚ました。
「どうやら、何かあったみたいね。」
パケトも、尻尾をぴんと立てて様子をうかがっている。外には、灯りを手にした神官を先頭に、町の男たちが集まっている。
人々を表に待たせておいて、神官ひとりだけが、神殿の中に入って来た。その表情に緊張が読み取れる。
「夜ぶん遅く、申し訳ありません。火急のお願いがあってまいりました、守護者様」
きょとん、として、メフェカトは、神官の動作を見ている。彼ではなく、神像に向かって頭を下げて話し掛けているのだ。
「僕、ここにいるよ」
「見えてないのよ。人間はああして、目に見えるものに祈るの。見えないんじゃ、どこに向かって話し掛けていいか分からないじゃない。第一、こっちだっていちいち姿を見せるのも面倒でしょ?」
「ふうん…。あの像には、そういう意味があるんだ。」
話し掛けられているはずなのに、自分のほうを振り向いてもくれない神官の平伏した姿が、なんだかおかしな感じだった。
「実は…。」
神官は重々しい口調で神像に向かって切り出した。
「今日、採石場に恐ろしい毒蛇が出たのです。幸いにもけが人はありませんでしたが、このままでは、安心して作業を続けることが出来ません。なにとぞ、我等をお守りくださいませ」
「蛇?」
「そう、蛇ね。敵だわ。」
パケトの瞳が、金色に輝いた。
「でも…どうして僕に頼むの?」
「決まってんじゃない。人間には出来ないことだからよ。」
さも当たり前のように、パケトは言った。
「人間に出来ないことをやるのが、あたしたちの仕事よ。見えない敵から彼等を守るために、あんたはここにいるの。」
「でも、蛇って、見えるんじゃ…」
「分かってないわね。いいわ、実際にやってみれば分かることよ」
町の人々が平伏し、祈りを捧げる。何だか、体じゅうがむず痒いような気がした。
そんなふうに、崇められる理由がない。自分は、何もしていない…何が出来るのも分からない。
「早速、行くわよ。こういうのは、早いほうがいいんだから。」
パケトに促され、メフェカトは、人々の祈りの間を縫って外に出る。
夜風の冷気が谷全体に満ちている。ふ、と…何か、嫌な視線が通り過ぎた気がした。
振り返っても、何もいない。
「どうしたの。」
闇の中で、猫の目が丸く光っている。
「…何か、感じたんだ。」
「何かって?」
「分からない…。」
ひどく気になる視線だったが、それは一瞬で消え、あとには気配の静寂が広がっている。感じたそののまを言い表すことが出来ずに、メフェカトは口を閉ざしたまま踵を返した。パケトは、訝しげな表情で、彼の後に続く。
夜の採石場は、死んだように静まり返っていた。昼の熱気は岩の奥深くに沈み込み、月の光も届かない、押しつぶされそうな闇が岩の合間に広がっている。それでも、メフェカトには、風景の輪郭が見えた。
切り出し途中の岩、切り出した岩を転がすための丸太、渡し場に繋がれた船。すりへった銅の楔がひとつ落ちている。
「どう。何か感じる?」
パケトが側にやって来る。
「…いろいろ」
さっき感じた、まとわりつくような視線にくらべれば、夜の生き物たちの気配は吐息のようなものだった。
「ボーっとしてないで、感覚を研ぎ澄ますのよ。人間に害をなそうとするものは、それだけで強烈な気配を出すんだから。」
言われて、彼はどうにか辺りの気配に紛れた違和感を感じ取ることができた。だが、それはとても分かりにくい、ちっぽけな気配だ。パケトの言うような強烈な気配ではない。
「分かったでしょ?」
「うん…。」
「なら、行くわよ。」
「どうするの?」
「どうって、決まってるじゃない。退治するのよ。町の人間たちも、あんたにそれを望んでる。明日からも、ここで平和に仕事を出来るようにと」
彼がためらっているのを見て、パケトは眉をよせた。
「何よ。イヤなの?」
「嫌じゃない…けど…。」
「だったら、
「どうやって…退治するの?」
「あぁ。そういう意味ね」
彼女は、戦い方が分からないので躊躇っているのだと思ったようだ。
微笑みながら、ひらりと岩の上に飛び乗った。
「あんたには二つの武器があるわ。一つは爪よ。普通は、これで戦うわね。」
「…うん。」
「それから、もう一つ。これは、ウプウアウト様から預かって来たものよ」
言って、彼女は尻尾を不思議な形にくゆらせた。灰色の毛並みの中から、まるで手品のように、三角に尖った短いナイフが現われる。
「少し扱いづらいかもしれないけれど、最初はこれを使うのがいいかもしれないわね。振り回しちゃダメよ? それと、大切にしなさい。道具っていうのは、自分が持ってるうちはいいけど、相手の手に渡ったら、今度は自分を傷つける敵になるんだから。」
「……。」
メフェカトは、はじめて手にする鈍い刃物をおっかなびっくり眺めた。黒っぽい表面には、細かい波のような傷が走っている。
なぜだか、それを手にしていることが、ひどく罪なことのように思われた。
「いたわよ!」
ぼんやりしていた彼は、突然のパケトの声に我に返った。
闇の中を、素早く移動する細長い影が見える。身軽に岩から岩へ、斜面を走るパケトがそれを追う。メフェカトも、慌てて飛び出した。
「クウ…!」
岩の割れ目に滑り込もうとした蛇の尾を、鋭い猫の爪が突き刺す。
そのまま引きずり出したパケトは、黒い影の頭をしっかりと前脚で押さえつけ、メフェカトのほうを振り返った。
「さあ、早く! トドメを刺しなさい」
「でも…。」
「いいから。何やってんのよ! そのナイフでこいつの頭を切り落としなさいっ」
彼は、ナイフを手にしたまま、立ち尽くしていた。
動けなかった。
蛇は恨みがましい目で彼を見上げている--―そんな目で見られることに、戸惑っていた。
分からない。これが、人間たちが望んでいた神の仕事というものなのだろうか。…こういう蛇を殺すために、自分はこの町にいるのだろうか…?
「ちょっと! あんた」
メフェカトがじっとしたままなのに、苛立ちを覚えたパケトが怒鳴る。
「やる気ないの? だったらアタシが!」
「待って…」
彼は、慌てて止めた。
「この蛇は、本当に殺さなくちゃならないの?」
「は?」
パケトの鬚が、怒りでぴくぴくと動く。
「当たり前じゃないの。あんただって感じるでしょ。こいつは、人間に悪意を抱いているの。放っておいたら、明日ここに来た人間たちの誰かを噛むわよ。毒で人間を苦しめるわよ。それでもいいの?」
「それは…よくないよ。でも、どうして人間に悪意を抱くのか、僕には分からないんだ…」
「ドウシテダッテ? 決マッテイルダロウ」
頭を押さえつけられた蛇が苦々しい口調で答えた。きつく岩に押し付けられた口元からは、緑色をした血が流れている。
「奴ラハ、我々ノ住ミカヲ荒シ、毎日大キナ音ヲタテ、揺ラス…。コノ谷ハ、奴ラガ来ルヨリ前カラ我々ノモノダ。我ラノ住ミカヲ荒ラシタノハ、奴ラダ」
「お黙り」
ぎゅう、と押さえつけられて、蛇は黙った。苦しげに、目が白く閉じられる。
「やめて、パケト」
「あんたがやらないんなら、アタシが殺すわよ。ったく、あんたときたら、ほんと役立たずなんだから」
「やめてよ。毒を持ってるのかもしれないけど、人間を嫌いかもしれないけれど、それは、家を荒らされたからだって…」
「理由なんか、どうでもいいのよ!」
その瞬間、爪がひらめき、さっきまで喘いでいた毒蛇の頭が地面に飛んだ。
はっとして、メフェカトはナイフを取り落としそうになる。
緑色をした血が、まだピクピク動いている首から、じわりじわりと広がっていた…。
「よく覚えておきなさい。アタシたちは人間を守るために存在しているのよ。こんな連中の言うことなんか、真に受けていられないの!」
闇の中から睨みつける金色の双眸をこそ、彼は、恐ろしいと思った。
そして、そんな彼の姿を、闇の中から無数の瞳がじっと見つめていた。