灰色の町の守護者…8



 月の照らす岩の上には、以前と同じ黒犬が座っていた。月明かりに輝くその毛並みは艶やかで、どこか神秘的な輝きを放っている。
 「急な呼び出しだな、どうしたのだ。」
 「解(げ)せません。なぜ、彼をこの地の守護者に?」
砂まじりの夜風が神々の間をすり抜けていく。どこか遠くで、野犬たちの吠える声が聞こえた。
 「まだ、不服なのかね」
 「不服なんてものじゃありません! これじゃ…、これじゃ逆に、あのコが可愛そうです!」
パケトの声は悲鳴のように甲高く、谷間にこだまする。
 「ここがどのような場所か、おわかりでしょう、ウプウアウト様! 神々からしても、人間たちからしても辺境です。川の神の結界の力も届かない…。何が起きてもおかしくない場所なのに、なのに、あのコは戦いの神ではないわ!」
 「……。」
 「もっと早くに気がつくべきでした。あの子は守護の神です――戦う力は、持っていません。人間の子供たちや、町の暮らしを楽しんで、見守るものです。たとえ敵でも、刃を振り下ろすことをためらってしまう。…そんな優しさじゃ、この町は守れないのに!」
 「大神たちの決定は、間違っていたと?」
 「ええ。任地替えをお願いします、さもなければ、戦う力を持った神をここへ」
 「それは…出来ない。」
 「なぜです!」
パケトはなおも食い下がる。乱された灰色の毛並みが、風で逆立っているようにも見えた。
 「なぜ、彼でなくてはならなかったのですか? あんな、生まれて間もない、何も知らないような。しかも…戦う力もない! あの子はまだ幼いんですよ、自分には守りたいものを守る力が無いと知ったとき、どんなに傷つくか!」
 「神に、幼いも老いているも無い。すべては、心が決める」
 「ウプウアウト様!」
 「あの者を導いてやるのだ、パケト。お前の思う通りに。…私に言えるのは、これだけだ。」
無情にも、黒い犬の姿は掻き消えた。取り残されたパケトは、尾を垂れたまま地面を睨みつけている。
 「…ムリよ、アタシには。こんな辺境の地で、どうやって戦えっていうの?」
かさかさと、風に飛ばされた乾いた草が岩間で音をたてる。
 月は満月を過ぎて、少しずつ痩せはじめていた。この町に来てから、もうすぐ、一月が経とうとしている。


 メフェカトは、パケトがこのところ急に何も言わなくなったことに気がついていた。外に出かけるのにも文句を言わないし、ついて来ようともしない。何か、ずっと考え込んでいるようだった。
 昼間、メフェカトは、町じゅうを歩き回った。道もだいぶ覚えた。今なら、どんな細い路地や隠れ場所も、何処にどんな人が住んでいるのかも分かる。ネフェルトも、色々なことを教えてくれた。歌や、石けり遊びや、前に住んでいた町のこと。
 メフェカトが他の子供たちに見えないことを最初は驚いていた彼女だったが、すぐに、そんなことにも慣れてしまった。小さな子供たちは、不思議なことも、不思議だとは思わないのだ。
 彼はよく、町の子供たちと遊んだ。
 といっても、彼の姿はネフェルト以外の誰にも見えないから、大抵は側に座って眺めているだけだったけれど。
 楽しかった。
 敵を殺せ、と言われるよりも、ずっと楽しかった。通りを行く家族を眺めているのも楽しかった…夕方が来て、子供たちがうちに帰ってしまうのを見るとほんの少し寂しかったけれど、彼にも帰る場所はあった。
 その日もパケトは、沈んだ顔で、神殿の片隅に座っていた。
 「ただいま…」
そうっと声をかけてみたけれど、返事が無い。むっつりした表情で、どこか見つめている。邪魔をしないほうがいいかもしれない、と、側を通り過ぎようとしたとき…
 「おかえり。」
遅れて声がかけられた。
 てっきり聞こえていないと思っていたメフェカトは、びっくりして振り返った。
 「どうだったの、町は。」
 「…うん」
楽しかった、というと、不機嫌そうに留守番をしていたパケトに悪いような気がして、彼は、曖昧な返事しか出来なかった。
 「そう。よかったじゃない」
何も言わなくても、パケトには分かったようだった。ふいと体をねじり、壁のほうを向く。
 「あの…。」
 「なに。」
 「怒ってる?」
 「別に。怒ってなんか、いやしないわよ。」
 「じゃ、どうしてそんな顔してるの? この前のこと…僕が意気地なしだから?」
 「違うわよ。別に、あんたが悪いわけじゃない。」
 「……でも。」
メフェカトは、パケトから少し離れた場所に腰を下ろした。彼女がなぜ不機嫌そうなのか、怖くて今まで訊ねられなかった。でも、このままではいけない気がした。自分が原因だとしたら、謝らなくてはならないから。
 「ごめん、僕、役立たずだよね。この町は、僕が守らなくちゃいけないのに」
 「そうじゃないわよ。言ったでしょ、あんたは、ここにいるだけで役目をちゃんと果たしてるのよ。」
 「…。」
再びごろんと方向を変えて、しばらく鬚をぴくつかせていたあと、パケトは溜息をついて起き上がった。
 「ああ、もう! そんな目でじーっと見ないでよ! どのみちあたしが悪いみたいじゃないのよ、…ったく…」
ぶつぶつ言って、耳のうしろを掻く。
 「メフェカト、あんた、子供たちといると楽しいんでしょ? 人間たちの暮らしてるの見てると、幸せでしょ?」
 「うん」
思いがけない質問に、彼は素直にうなづいた。パケトは大きく溜息をつく。
 「あんた戦いには向いてないのよ。」
 「…どういうこと?」
 「神にも、いろいろいるの。知恵の神、戦いの神、月の神や太陽の神、役目だって様々。あんたは守護の神よ、人間たちの側にいて、ともに生きる。それが、あんたの役目。」
青い瞳が、幾度が瞬いた。
 「それって…。」
 「神の種類とか、性格とかいうものは、生まれつき決まってるの。…しょうがないでしょ、今のあんたは、そういう性質なんだから。戦いのことなんか教えたってムダなんだから、毎日そこらへんでノンビリやってなさいよ。あーあ、アタシも損な役回りだわ。何だってこんな、甘ちゃんのお守りなんか…」
 「あの、パケト」
 「何よ。」
 「それじゃ、僕は戦わなくてもいいの? 蛇を殺さなくてもいいの?」
 「いいわよ。出来ないんでしょ? どうせ。」
それもそうだ。
 やれ、といわれても、きっと出来ない。うろたえて、まともにナイフも握れないに違いない。
 「あんたには、人間とじゃれあってるのが一番なの。何も考えなくていいの、思うとおりにやりなさいよ。」
 「……。」
優しいようで、どこか、突き放されている気がした。
 パケトは、彼と入れ替わるようにフイと外に出て行ってしまう。ここのところずっとそうだった。昼間はずっと家(神殿)にいて、夜になると、どこかへ出かけていってしまう。ろくに話もしていない。最初の頃は、いつもすぐ側にいて、姿が見えなくなっても呼べば来てくれたのに。
 独り立ちしなくてはならない、と、いうことなのだろうか。
 まだ何も分かっていないのに…思う通りにやれと言われても、何をすればいいかも分からないのに。


 一人でじっとしていると、悲しくて、寂しかった。パケトに言えば甘えていると叱られるのかもしれないけれど、正直に言えば、誰かと一緒にいたかった。
 メフェカトは、神殿の真ん中に鎮座する、黒い、何も言わない神像を見つめた。その像は、自分にもパケトにも似ていない。遠い東の鉱山で採れるという、青い渡来ものの石は、物言わず冷たかった。
 人間たちは、感情の篭もらないこの瞳に、いったい何を託すのだろう。何を願うのだろう。
 それらは、自分に対して向けられる願いのはずなのに…。
 『神にも、いろいろいるの。あんたは守護の神よ、人間たちの側にいて、ともに生きる。それが、あんたの役目。』
パケトの言葉を思い出した。
 「側にいて…、ともに生きる…。それが、僕の役目?」
分からない。
 自分は本当に、役に立っているんだろうか? いつか力尽きて消えてしまうのではなく、ずっとここにいられるだろうか?
 溜息をついて壁にもたれるメフェカトの肌に、ぴりぴりと何かが伝わって来る。何だろう、不安にさせる感じ。…以前も、こんな不安を覚えたことがある。
 その気配を感じるうち、いてもたってもいられなくなって、彼は立ち上がった。昼間の疲れも、置いてけぼりにされたような心もとのなさも、一気に消え失せた。


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