―--そこは、ひんやりとした暗い場所。多くのぼんやりとした幾多の光が形を無し、ゆらめく場所…。
その中の一つに自分がいることは、辛うじて、分かった。水の中に浮かんでいるような奇妙な無重力間があった。暗いせいだろうか、上も、下も分からない。周囲に浮かび、ちかちかと輝く光たちの言葉は、おぼろげにしか分からない。誰かが来ている、と往っているようだ。
遠くから、誰かの声が響いてくる。
『新しい町が出来るのを、知っているわね? あそこは…誰の管轄だったかしら』
威厳のある女性の声。
『ナイルの本流からは、だいぶ離れます。正式な管轄はいないはずですよ。』
こちらは若い男性の声。
『誰の守護地域からも外れるというのですね。』
『そうなります。』
『では---…』
一息つく真がったかと思うと、女性の声が、自分に向けられた。唐突に声と気配とが近づき、大きな手が、小さな光を大いなる闇の中から救い上げた。まぶしい光――真っ白な世界。声は頭上から滝のように降り注ぐ。
『やはり、この者を行かせましょう。人間たちが住まう町には、神が必要よ』
まぶしさに目をこらす世界に、くっきりと白い腕が、目の前に伸びてくる。体を包み込む暖かな光と、遠のいていく気配。ふんりとした光の中で、体が熱くなるのを感じた。
そうして、世界はいちど閉じられた。
* * * *
気が付いたとき、目の前は、真っ白な昼の日差しに照らされていた。
天の中心に、丸い光が凄まじい輝きを放っている。あまりの眩しさに直視することが出来なくなって、彼は、いちどまぶたを閉じた。
だが、まぶたの奥の闇は、さっきまでいた、心地よい闇の中とは、違う。どんなに目をきつく閉ざしても、光が、まぶたの間から入り込んでくる。
「やっと、お目覚め?」
てっきり一人だと思っていた彼は、びっくりして目を開けた。
傍らに、灰色の毛並みをした猫が一匹、のんびりと毛づくろいをしながら座っている。いま、しゃべったのは、この猫? … それとも、空耳だったのだろうか。
周囲には、切り立った渓谷が過ぎてゆく。荷台がごとごとと揺れ、荷物が軋む。二頭の驢馬が、熱さに汗をかきながら荷物を運んでいる。それでようやく、彼は、自分がどこにいたのか、知ることになった。荷台の上に横たわっていたのだ。
荷台の上には、家財道具一式が積み込まれていた。同じような荷車は何台も連なって後ろに続き、幾つかの家族が分乗している。赤ん坊を抱いた女性、驢馬にムチを当てる父親らしき男、幼い子供と老人。
「ここは?…」
自分が発した声に驚いて、彼は喉に手を当てた。自分の声のはずなのに、はじめて聞く響きだった。それに、音。こんなふうに音を聞いたのは、初めてだ。視界も何かが違う。よく知っているものばかりのはずなのに、何一つ知っているものが無いような。
「心配しなくても、すぐに慣れるわ。」
傍らの猫が言って、軽く目配せする。
「あの…」
「あたしは、パケト。そう名乗ったでしょ? 忘れたの」
そう言われると、聞いたような気もする。だが、ついさっき目覚めるまでの記憶はおぼろげで、思い出そうとしても、頭の中は空っぽだった。
灰色の猫は毛づくろいをやめ、じぃっと、彼を見上げた。
金色の眸だ。
「あの…僕は…」
「なに?」
「僕は、誰…?」
我ながら、情けない質問だった。自分でも、声が打ち沈んでいるのが分かる。こんな惨めな気分は、いつ以来だろう。ヒゲを全部垂れた猫のようだ。
「ああ、あんた、まだ生まれたてだもんね。何も分からないわよね。そう…、まずは説明しておくわね。」
猫は、ゆっくりと、しなやかな足取りで彼の目の前にやって来た。すぐ側に人間の背中があるのに、誰も、気付かない。
「これから、この人間たちは谷の向こうに移住して、新しい町をつくるために移動してるところなの。そこにはまだ、土地を守護する神がいない。だから、あんたがこれから町の守護者になるのよ。」
「…僕…が?」
「そう。町の名前は<灰色>。谷が灰色だからね。だから、あんたは<灰色の町のもの>。それが存在を表す言葉」
金色の眸に呑まれたようになって、彼は、一瞬ことばを失った。
行く手で谷間が切れ、青い空が広がり始める。
荷台の上で、小さな子供たちが立ちあがり歓声を上げた。谷の向こうに、広々とした空間が開ける。そこに河の支流が淀みながら流れ込み、黒々とした一筋の流れを作っていた。
閉ざされた谷間に導かれる、生命の流れ。それは、ひどく不思議な光景に思えた。谷の淵に触れた太陽の輝きが、顔を照らし、その眩しさに彼は、思わず手をかざす。----そして、その手が、人間と同じ五本の指をもつ、すべらかな形であることに気付く。
そういえば、足も。尻尾は無い。耳も…
「僕、どんな形をしてるの?」
「え?」
尻尾をくゆらせて景色を見ていた猫が、振り返った。
「僕って、人間みたいじゃない?」
「見た目はね。でも、誰にも見えていないから、どっちでも構わないと思うけど。あんた…自分でその姿になってるんでしょ?」
「わからない…」
「わからない、って。もう、なんだか変わったコね。押し付けられたから面倒みるけど、こんなんで大丈夫なのかしら?」
しゅん、となって、彼は荷台に積まれた荷物の中をおそるおそる探した。黒っぽい、護符の形に似せた手鏡がひとつ、荷物の中で太陽の輝きを反射している。けれど、そこには、何も写らない。影も出来ていない。なんなのだろう。守護者?
それは、人間じゃないってことだろうか。
「あ、ほら見てお父さん。家がみえるー」
後ろの荷台で、小さな女の子の甲高い声が響いた。
はっとして振り返るとき、鏡は手から落ちて荷物の中に紛れ込んでしまう。慌てて探そうとする彼を見て、猫は、くすくすと笑った。
「気付きやしないわよ。人間たちは鈍感だからね。あたしたちを見つけられるのは、慣れた神官だけよ。」
「あの…パケト…。」
「覚えてないなら、もう一度、説明してあげる。あたしは、あんたの教育係・兼・監視係よ。生まれたばかりの神にいきなり任務を与えるほど、上の神々はお気楽じゃないの。さ、着いたわ。降りて」
言うなり、パケトは身軽な動作で、まだ止まりきらない荷車からひらりと飛び降りた。彼は、視線でその動きを辿る。太陽に照らされても、彼女の足元には影がない。
「どうしたのよ。早くなさい。」
「…う、うん。」
入っていく先は、他の家とは少し違った雰囲気の建物だった。作られたばかりなのは、間違いない。石組みのまわりには、まだ、荒削りの石の欠片が散らばっている。石は白っぽく昼の光を反射するが、日陰の部分では、確かに灰色に見える。
「勝手に入ってもいいの?」
「当たり前でしょ、あんたの家なんだから。ここは、俗に言う"神殿"。」
「神殿…。」
「ま、かなりチャチだけどね。あんたは、まだ、"あんた自身"じゃない。人間たちから見れば、あんたは元の町にいた神の一分身でしかない。分かる?」
「…分からない」
「で、しょうね。まぁ、すぐには分からないと思うわ。どうせ、"神"としての自覚も無いんだろうし。」
パケトは、段差のある床の上に、ひょいと飛び乗った。建物の中は、そう、広くはない。外と何も変わらない、埃と熱の入り混じる空気が、石の間を吹き抜けている。
「僕は、何をすれば?」
「おいおい教えてあげる。あんた、まだ生まれたてなんだから。」
猫に倣って、陽だまりの祭壇に腰を下ろす。神像が祀られるはずの壇の上には、まだ、何も無い。そういえば、こういう場所には、供物が供えられ、外からは見えないようカーテンや扉があった…ような気がする。
どこで見たのだろう。
ぼんやりと外に目を遣った、箱を真ん中にかついだ行列が、こちらに向かって来るのに気づいた。