人間たちは、二本の棒の上にしっかりと固定された箱をかつぎ、その前後に人がつきそっている。先頭を来る人間は、髪の毛を剃った、つるりとした頭で、白い布を纏っている。手には、何かいい匂いのする煙を出す、小さな道具を携えていた。
「来たわね。」
パケトが、ぴょんと祭壇から飛び降りる。
「こんな小さな町にしては上出来だわ。さ、あんたはこっちに来て。」
「…何が始まるの?」
「神の御座を移転する儀式よ。元の町の神から力を分けてもらった像をここに運び込むことで、町を守ってくださいってお願いするのよ。」
人々は、真剣な顔つきで、担いできた箱をそろそろと祭壇に下ろした。
先頭にいた、つるりとした頭の男が封を解く。残る者たちはみな、地面にひざまづき、頭を垂れている。
「あの人は?」
「神官よ。神官以外は、神の像を直接見てはいけないの。例外もあるけどね。」
「例外?」
「神が認めた人間、たとえば、王なんかね。…ま、アタシはあんな奴、王とは認めたくないけど上の決定だし…。」
と、ぶつぶつ言いながら、パケトが一つ、溜息をついたとき。
「おとうさーん!」
突然、甲高い声が重々しい沈黙を破って飛び込んできた。
「あっ、こら! ネフェルト!」
荷車の上で、町を指差していた子だ。
駆けて来た幼い少女は、大人たちの驚きの表情に気がついて、入り口近くで足を止める。目をぱちぱちさせたかと思うと、たった今、祭壇に設置されたばかりの像を見た。
「猫さんだ。」
「こら!」
父親らしい人物が、あわてて駆け寄って女の子を抱きすくめる。彼は、振り返って祭壇の上を見た。
本当に、そうだ。
日差しの中に設置された黒っぽい石で作られた神像は、正座する猫の形をしている。まっすぐに正面を見つめる眸には、輝くような青い石をはめ込んでいる。
ほんとうに猫の像だ、彼は思った。一度も見たことがないはずなのに、不思議と、懐かしい。それは、像の持つ、どこか暖かな雰囲気のせいなのか…。
だが、人々はそれどころではなかった。
「ネフェルト、外に出なさい。神様に失礼だろう」
父親が、幼い子供をしかりつけながら外に出て行く。残された男たちの間に気まずい雰囲気が漂っていた。
「まったく、躾がなってないわね」
パケトが、フンと鼻をならす。
「でも、僕、失礼とかそんなこと…」
「おだまり。あんたも自覚ないわね本当に。礼儀ってモンは大事なのよ。そんなんじゃ人間にナメられるわよ?」
「……。」
「ったく。いい? ここからが肝心なんだからね。」
気を取り直した神官は、神像に向かって何か呪文のような、祈りの言葉を唱え始めた。男たちは深々と頭を下げたままだ。立ち上る香の煙が、辺りを神秘的な空気に包んだ。
「神よ、つねに我等とともにあれ。我等の新しき町を守りたまえ…。」
神像が淡く輝く。彼は、自分の中に何か不思議なものが流れ込んでくるのを感じた。
「わかる? その力は、あの神像に封じ込められた、元の町の神の力。当面は、この力で町を守っていける。でも、いつまでも他人の力に頼ってはいられないの。あの像の中にある力は、永遠には続かないんだから。」
「どうすればいいの?」
「人間たちに祈らせること。人間たちが願えば、それがあんたの力になる。なんたって神なんだからね? でも、人間の信頼を得られなかったり、呪われたりすれば、あんたは消えてしまう。人間たちに大いに感謝され、敬われる神となりなさい。それが、あんたの役目。」
神官が呪文を唱え終わった。
振り返った白い衣の男は、男たちに向かって何か指示する。間もなく、様々な供物が祭壇の上に並べられた。
「なにぶん、出来たばかりの町ですゆえ…。どうか、よろしくお願いします。神様」
「……。」
神官の祈りを聞きながら、彼は、しばらく何か考え込んでいた。
「…名前」
「え?」
人々の去ったあと、供物と香を供えられて少し賑やかになった祭壇の上を眺めながら、彼は訊ねた。
「人間には、みんな名前があるんだよね?」
さっき駆け込んできた、幼い女の子のことを思い出していた。
「そうよ。当たり前じゃない。それが?」
「僕は?」
「だから、言ったじゃない。<灰色の谷の町のもの>だって。」
「…でも、それって、名前じゃないよ。君だって、パケトって言う名前があるのに…」
猫は、ちょっと面食らったような顔をして、耳をぴくぴくさせた。
「…アタシのは、称号よ。」
「称号?」
「そ。切り裂くもの、夜狩する女神、パケト――。神の名前って、そういうモンよ」
「本当の名前は、何なの?」
「それは教えられないわよ。神や精霊にとって、本当の名前っていうのは、本質を表すものなの。言ってみれば弱点みたいなものよ。自分より力の強いものに名を知られれば、支配されてしまうんだから。おお、嫌だ。…だから、もちろん、あんたのも本当の名前じゃないわよ。」
「ふうん…。」
支配されてしまう、というのは少し恐ろしい気がしたけれど、自分に本当の名前が無いのは寂しい気がした。何より、誰にも呼んでもらえない。
「どうしたのよ。」
「…あの石の色は、何て言うの?」
「石?」
パケトは、胡散臭そうに彼の指差す方向を振り返った。神の像、猫を形どった石の像の双眸には、光に当たると明るい色に輝く、緑がかった青い石がはめ込まれている。
「シェメセト石の色ね。青はメフェカト。メフェカトよ、それが?」
「うん、じゃあ、それを僕の名前にする。」
「はあ?!」
「だって、<灰色の谷の町のもの>なんて…長いし、かっこ悪いんだもの」
「あんたねぇ。」
パケトは頭を抱え、深い溜息をつく。
「…いいけどね。どうせ、本当の名前じゃないし。じゃ何? あたしは、あんたのことを<シェメセト石>って呼べばいいわけね。」
笑顔で頷く少年を見て、パケトは渋い顔をしながらも、内心、いい名前かもしれないと思っていた。
自分では気がついていないのであろう。光の中に立つ幼い神の姿は、まるっきり人間の少年に見えた。その神は猫の背中のようにふんわりと外に広がり、灰色というよりも、銀に近く見えた。そして、眸は、――遠い町から運ばれてきた神の像と同じ色。シェメセト石の輝きのような、深い青緑にきらめいていた。