灰色の町の守護者…14


 町の境界、人が住む場所とそれ以外の場所、…町の守護者である神の力の及ぶ範囲を示す石は、見た目には何の変哲もないものだった。
 「これが、境界石です。」
 「ずいぶん簡単なんだね。」
 「そうですね。大きな町ともなると、太陽の力を集める柱を建てるものなのですが。」
石には、何か絵文字が刻まれている。
 「メドゥ・ネチェル<神聖なる文字>と、いうのです。これは」
メルカは、まるで自分が神に教えていることが信じがたいとでもいうように、神妙な面持ちで言った。
 「この文字は…限られた者にしか扱うことの許されていない、神々の叡智なのです。メフェカト様もご存知では…」
 「ううん。僕、知恵の神じゃないから。」
 「…成る程。それもそうですね」
随分、あっさりと納得されてしまった。
 石をひとつひとつ見て回る。
 パケトは、何か異常があれば感じ取れるようなことを言っていたけれど、メフェカトには、何も感じ取れない。ただ、町の空気のざわめきだけが波のように背中に感じ取れる。
 不安。
 畏れ。
 …縋るような思い。皆、死を恐れる。死ねば、楽しい永遠の楽園に行けるはずなのに、苦しいはずのこの世に留まりたいと願う。
 それは…どうして、なのだろう。
 さざめく人の心が、メフェカトには掴み兼ねた。
 「あのさ、メルカ」
 「はい。なんでございましょう。」
半分くらい周ったころだっただろうか。 
 もう、日は天の高い場所を過ぎている。
 「蛇たちは、ここに人間たちが来る前から住んでいたんだって言ってた。石切り場が出来て、自分たちの住処がなくなってしまって、だから怒っているんだ。人間たちを殺したいほど憎んでいる。もちろん僕やパケトは、メルカたち人間を守りたい。でも、前から住んでいた蛇たちを追い払うことは、本当に正しいのかな。」
足を止めたメフェカトの視線の先には、白く、崩されたばかりの岩肌をさらす岸壁がある。その辺りは切り出した石の屑でいっぱいで、地面は人の足によって踏み馴らされて、生き物は住めなくなってしまっている。
 「どうして、戦わなくちゃいけないんだろう。この場所は…元々は彼らのものなのに」
メルカの返事は無かった。
 答えることが出来なかったのかもしれない。
 メフェカトは構わず歩き出す。考えながら、町と町の外の世界とをつなぐ石のならびを、ゆっくりと歩いた。考えたって答えなんか出ないことは分かっている。けれど、考えないままではいられなかった。
 憎しみが生まれて、戦いが起こって、パケトはたった1人でへとへとになるまで敵を追い払う。畏れるものがあれば人々は神に祈るのだろう。でもそれは、つねに脅かされて、不安におびえながら縋る祈りだ。
 そんなものは、要らない。そんなふうに見て欲しくはない。本当は----

 「…これ」

 メフェカトは、足を止めた。
 足元に石が転がっている。今までのものと同じ、文字の刻まれた少し色の違う石だ。だが、それは、今までのものと気配が違っていた。メルカが石を拾い上げる。
 「これは、文字が違う…いや、文字が傷つけられています。」
 「そうなの?」
 「ええ。誰かが故意に、あるいは事故でか、傷つけてしまったようですね。それで、結界が途切れて」
メルカがそこまで言ったとき、メフェカトは、ふいに、ぞくっとするような寒気を感じた。
 今まで感じたことのないくらい、激しい憎悪。怒り。…しかも、町の中からだ!
 「キャアアアッ!」
女性の甲高い悲鳴とともに振り返った彼は、町の上に渦巻く、暗い、雲のようなものを見た。それは鎌首をもたげた一匹の蛇のようだった…けれど、それは一瞬のこと。
 「メフェカト様!」
 「ここにいて。石を戻して!」
気配が移動している。彼は走った。2本の足で走ることがもどかしいくらいだ。
 人々が走り回っている。誰かが、黒い蛇を見たと怒鳴っている。倒れている女の人がチラリと見えた。毒蛇に噛まれたのか…
 走るメフェカトの視界に、何か黒いものがちらりと映る。人々の混乱するさまを伺っていたそれは、向かって来るメフェカトに気付いて、するりと逃げようとした。
 「待って!」
気がついたとき、彼は、それに向かって叫んでいた。
 「お願い、逃げないで。僕は君たちを殺したり出来ないから!」
 「……。」
逃げようとしていた影が、ピタリと止まった。
 振り返る、小さな黒い眼。全身を覆う鱗は精巧な細工のように透間無く、一定の調和のもとに輝きながら並べられている。害を及ぼすものとは思えないほどに美しく、ひき付けられるような毒を持つ。
 「話がしたいんだ。君たちと」
腰をかがめ、息をつくメフェカトを見上げる視線は、その体と同じように冷ややかだ。
 「人間たちを襲わないで欲しい。石を切り出す季節は終わったんだよ。もう、あそこを荒らしたりしない。あ、来年になったら、その、また荒れるかもしれないけど…ねえ、別の場所に住むってことは、出来ないの?」
 「ふん。何を言い出すのかと思えば。」
蛇はゆっくりと、はっきりとそう口にした。今までの蛇たちとは違っている。
 「住処を追われたから、というだけではない。人間たちは我等の土地を荒らしたのだ。貴様には見えぬのだろう。あの、無惨な岩山の姿が。地形の変わるほど荒らしておいて、今さら何を言う。」
 「それは…でも、石が必要だから…。」
 「ここは我等の土地なのだ。どこかへ移り住むことなど出来はしない。人間どもこそ、何処かへ移れば良いのだ。後から来た者なのだからな。」
 「でも! 憎しみをもって襲い掛かっても、人間たちはどこかへ移り住んだりしない。それじゃ何も解決しない、だったら一緒に生きて---」
すうっ、と蛇の目に瞼が下りた。炎にも似た憎悪の感情が、激しくメフェカトを打つ。
 「貴様は何も分かっていない。よく覚えておくがいい。我々が本当に憎むのは、人間どもではない。貴様ら人間どもに味方する者たちだということを」
 「----え?」
凍りついた彼をあざ笑うかのように、シュッと音をたてて蛇は物陰へと滑り込んだ。呆然として立ち尽くす彼の耳に、背後の、人々の喧騒が戻って来る。
 すすり泣く声。誰かが泣いている。この声には聞き覚えがあった。
 人ごみをすり抜け、人々の真ん中に立ったメフェカトは、体を固くして立ち止まった。倒れている女性は、ときどきネフェルトと一緒に歩いていた、あの人だった。そして、側にしゃがみこんで、泣きじゃくっているのはネフェルトだ。
 青ざめた女性の顔からは、すでに生気が失われかけている。剥き出しになったくるぶしには、赤くぽっちりと血の滲んだ噛み傷がふたつ。毒牙の跡だ。
 「おばさん、おばさんが…」
大人たちはみな、諦めきった顔をして首を振る。誰かがそっと、女性の冷たくなりかけた体に布を被せた。強すぎる毒は、心臓に巡ったとたん死を運び、息を止める。

 目の前で死んでゆく、ひとりの人間。
 それは、メフェカトにとって生まれてはじめて見る、「死」の瞬間だった。


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