灰色の町の守護者…15


 そのとき、何かが変わった気がした。
 頭の中で何かがふつりと途切れ、頭の上から足の先まで、砂の粒になって零れていくような、そんな感じがしたのだ。
 町が出来たばかりで、まだ死んだ人間がいなかったため、墓地は無かった。人々は、町からだいぶ離れた谷間に仮初めの墓場を決め、横穴を掘り、香油に浸した布で巻いた女性の体をそこに収めた。
 葬儀はしめやかに、誰もみな無口なままで、泣き女たちだけが激しく体をゆすって泣き叫ぶ。ネフェルトは青冷めた顔で父親の体にしっかりとしがみ付き、口を真一文字に結んでいた。
 「アンタのせいじゃないわ。アンタは結界の破れ目を見つけた。悲鳴を聞いて駆けつけたけど間に合わなかった。」
 「……。」
パケトの言葉も、メフェカトには遠い世界からの言葉にしか聞こえなかった。
 ネフェルトは、また、近しい人を、母親がわりの人を失ったのだ。
 「人は、いつか死ぬわ。大切なのは、そのとき、その人が自分の人生に満足していたかどうかよ。限られた時間をいかに正しく生きか、それが人の生というもの」
 「じゃあ、僕たちは…?」
 「なに?」
 「僕たちは、一体何のために生きてるんだよ。人間を守るために存在するはずなのに…」
泣き女たちの、甲高く、魔を払う嘆きの声に送られて、麻布で固くくるまれた遺体の上に、メルカが名前を刻んだ木切れをそっと載せる。メフェカトたちは、神々は遠くから眺めているしかなかった。
 「…アタシたちだって、死ぬときは死ぬわ。神だって不死じゃない。ただ、人よりも生きる時間が長いだけよ。」
パケトの灰色の毛並みは風になびいて、光にきらめいていた。
 灰色石で出来た谷間に斜めに差す太陽は、深い影を浮き彫りにし、人々の額に滲んだ汗に反射する。限られた時間だけ肌を焼く、灼熱の太陽。日は、船に乗り、東から昇り西へと沈む。死者の魂を連れて、空から大地の下へと入る。
 死と、再生と。乾いた季節を越えて大地は息を吹き返し、そよぐ緑はいつか、再び死の眠りの時を迎える。
 「人は死んで、また生まれてくる。時は無限よ。誰かが死者の国へ行けば、別の新しい命がこの世に生を受ける。その繰り返し。アタシたちは、そういった人間たちの営みを見守るために、ここにいるのよ。」
 「……。」
 「死を受け入れなさい、メフェカト。死ぬことは悲しいだけじゃない。人も、神も、この世のものはすべて、永遠ではないわ。」
でも、一人しかいない。
 たとえ新しい命が生まれて来ても、失われた命はただひとつだけだ。ネフェルトも、ネフェルトの叔母さんも、父親も、…メルカも、他の町の人たちも、一人一人、誰とも入れ替えることのない、掛け替えのない存在なのだ…。
 「パケト、僕たちは死んだらどこへ行くの?」
 「死せる神々の国、よ。安心なさい、そこも良いところだから。あんたなら、入れてもらえないってことはないでしょ。人間たちのためにシッカリ働いてるんだから。」
 「そこは、人間たちの行く場所とは違うの?」
 「ちょっとだけ、ね。…まぁ、生きてた時と大して変わらないと思うわよ。アタシだってよく知らないけど、人間の行くとこと、アタシたちの行くとこは別の場所にあるらしいって。昔、そう聞いたわ。知恵の神から」
気がつくと、人々の葬列は、三々五々散らばりはじめていた。最後まで残っているのは、ネフェルトと、その家族と神官だけ。それも、最後の別れをしたあと、町のほうへ向かってゆっくりと歩き出した。
 少女は泣いていなかった。
 大きな瞳をじっと見開いたまま、何かを考えているようにも見えた---。


 憂鬱な午後が過ぎていった。
 誰も明るい顔はしていない。葬儀のあった日は一日、皆、疲れた顔をして日々の仕事に励んでいた。子供たちも表に出ず、町は、いつもよりやけに静かに思えた。
 神殿の入り口に座って、メフェカトはずっと地面を見つめていた。
 こんなところで迷っていても仕方がないのたけれど、他に、どうすることも出来なかったから。
 「…メフェカト?」
はっとして、彼は顔を上げた。小さな声は、柱の影からした。
 ネフェルトだった。首にかけた青い石をぎゅっと握り締めたまま、中を覗き込んでいる。
 声をかけようとして、出来なかった。黙ったままでいるメフェカトに、おそるおそる近づいて来た少女は、彼を見上げて、掠れた声で、ゆっくりと…言った。
 「あのね。あの時ね、怖いものがとびかかってきたときね、メフェカトがまもってくれた気がしたの。だからあたしは死ななくてすんだの。」
握り締めた手の中に、あのとき、パケトに言われて息を吹きかけた石があった。手の熱に曇った、青いすべらかな石が。
 「…ありがとうね。」
 「……。」
飛びついてくる少女の体を、彼は強く抱きしめた。暖かなものが頬に零れた。
 何も出来なかったのに、見ていることしか出来なかったのに。謝りたくても、言葉が喉に詰まって出てこなかった。
 幾度、謝りの言葉を重ねても、失われた命は戻って来ない。この世に生きるすべての命は有限のもので、神でさえ万能のものではなくて、知らないことも沢山あった。
 自分はあまりに無力だった。
 けれど、それは、何も出来ないという意味ではない。何をすればいいのか、何のために生きるのか。人には出来なくて、神にしか出来ないことがある。共に生きるものとして、やらなければならないことがある。
 「パケト…」
立ち上がった彼は、神殿の中ごろに佇む灰色の猫を振り返った。

 「戦いかたを、教えて欲しい。僕に出来る戦い方」

 それは、洪水期の終わろうとする月も末のことだった。


TOP  前のページ  次のページ