灰色の町の守護者…20


 灰色の崖が続く。
 増水期が終わり、水が引いて、石切り場に向かって新しく掘られたばかりの水路には、底のほうに少し水が溜まっているばかりだ。
 町の境界を示す石は粉々に砕けて転がっていた。メフェカトは、辺りを見回す。気配が消えた。逃げてしまったのか、それとも、この風で匂いが薄れてしまっているのか。
 何かが、小さくうめいた。
 「パケト?」
風に乱れる灰色の毛が、くぼみの中に見えた。
 「…パケト!」
駆け寄って、抱き上げる。腕にぬくもりが伝わってきた。
 呼吸は、している。けれど、吐き出す力は弱々しい。
 「…ばか。何で来たのよ。アンタじゃ…足手まといに…。」
言葉が震えた。何があったのかは、聞くまでもない。彼女の体は、何か巨大なものに強く締め付けられたようにあちこちが傷つき、足が、奇妙に折れ曲がっていた。
 「すぐに手当てするから。メルカならきっと手当ての仕方がわかるよね」
そんなことをしても無駄だというように、パケトは静かに目を閉じた。体中が砕かれて、もう立ち上がることすら出来ないのだ。
 「諦めないでよ、パケト! そんな顔しないで、僕…、もう誰かが死ぬのは嫌だ!」
 「心配しなくったっていいのよ。人の死とは違う、ただ消えるだけ。神殿に戻るだけよ。時間はかかるけど、…力が戻れば、また、体を作れるようになる」
 「それでも嫌だ。」
喩えようも無い感情が胸に押し寄せてきて、溢れ出る熱いものを堰き止めることが出来なかった。顔を伏せたメフェカトの瞳から零れ落ちた大粒の涙が、パケトの灰色の毛並みの上に、ぽつり、ぽつりと降り注ぐ。
 「…泣いてるの?」
パケトは、目を閉じたまま口元だけ僅かに歪めた。
 「フフフ、アンタってほんと子供ねぇ…。こんなことで泣いちゃって…。アンタの飼い主だった人間も、そんな顔してたの…?」
何かの気配を感じた。
 顔を上げたメフェカトは、そこに、地面に落ちる暗い影を見つけていた。

 空に向かって首をもたげた巨大な蛇の影----。
 「お前が、パケトを…。」
 「そうだ。神はみな、我らの敵なのだ。無粋な人間たちの味方をし、我らの住処を奪いとる。貴様らさえいなければ、この国は我らにとって住みよい国のはずだったのに。」
声は、凛々として暗がりの内に響いた。それは、誰しもが胸の奥に持つ闇の部分。どんなに否定しても、隠そうとしても、怒りや憎しみを知らない者はいない。たとえ…天地を統べる大神たちとしても。
 黙ったままのメフェカトを見下ろして、蛇はすうっと目を細めた。
 「どうした? 仲間を倒されたのだ、戦わないのか。」
 「…戦わない」
 「怖気づいたのか? 守護者ともあろうものが。」
 「そうじゃない。パケトは、まだ死んでない。それに、僕…。今、ようやく分かったんだ。」
いちど伏せて、再び見上げた眼差しは、迷い無く真っ直ぐに目の前の影を射抜く。
 「憎みも、哀しみも、…君たちも僕たちも、生まれてくる場所は同じなんだって。だから、感じる心もいっしょなんだよ。僕が悲しいと思ってるように、きっと君たちも仲間が傷ついたり、死にそうになったりするってことを、悲しんでるんだと思う」
地面に落ちた影がたじろいだ。
 「だから、怒っているんだ…。人間たちや、僕たちが憎いって思うんだ。誰か正しくて、誰が間違ってるわけでもない。僕が感じてることは、きっと君たちと同じなんだ」
 「我らと、お前たち神とが、同じ…?」
 「そうだよ。君たちは住処を守りたいって思った。そこにずっと住んでいたから。僕は人間を守りたいって思った。人間に育てられたから。---同じなんだよ。だから分かるんだ。僕たち、このまま戦ってちゃいけないって。人間を嫌いで構わないよ、僕たちと友達になれなくてもいい。だから---もう止めよう?」
 「……。」
沈黙が流れた。蛇は、ゆっくりと首をもたげた。そして…
 「馬鹿馬鹿しい!」
ぴしゃりと打ち付ける尾に、メフェカトは思わず首をすくめた。すぐ後ろの岩が砕け、四方に高く散る。すんでのところで、彼も一緒に弾き飛ばされるところだった。
 頭上からの怒鳴り声が、突風のように空気を震わせる
 「そうして、貴様らの用意した、あの新しい洞窟に住めというのか。馬鹿げている! 何故、貴様らの都合の良いようにせねばならん。なぜ従わねばならん! 我らは自由だ。何者にも命じられぬ。貴様が死ねば、この町を守る邪魔者はいなくなる…人間どもを八つ裂きにして追い出してくれる!」
 「わ…」
飛びかかって来る蛇から身をかわし、メフェカトはパケトを抱いたまま走った。このままでは、戦うにしろ防ぐにしろ巧く動けない。
 彼は、踵を返して走り出した。蛇の影が左右に揺れながら追いかけて来る。首のうしろがチリチリした。激しい怒りの感情、さっきまでよりずっと、激しい。触れるだけで体が砕けてしまいそうだ。
 町のはずれの片隅に、パケトの体をそっと横たえる。
 「ごめんね。ここで待ってて」
腰に差していたナイフを抜く。考えている余裕なんて無かった。
 振り返ると、蛇の影はすぐそこまで迫って来ていた。


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