灰色の町の守護者…19


 ---今でも、その日のことだけははっきりと覚えている。
 暗い家の中で、一人、皆の帰りを待っていた。他には誰も、いなかった。

 その日はお祭りだか町の集まりだかで、人々は留守だった。外をぶらつくのにも厭きて、普段聞きなれない姦しい物音が嫌になって、自分の匂いのする部屋の片隅で丸くなって、じっとしていたのだ。
 心細く思っていた。
 その夜は、なんだが首の後ろがざわざわした。今までに感じたことのない気配だった…。
 カサ、と音がして、彼は耳を立てる。何だろう。何かが、こっちに近づいて来る。
 カサカサと…その音は、まるで、誰かの囁きのように聞こえた。顔を上げると、月明かりの入り口から、何か細長いものが中をうかがっているのが見える。
 それは、今まで見たこともない、奇妙なかたちをした生き物だった。
 足の無いとかげ。
 まだ成人していない、興味でいっぱいの子猫にとって、それは、恐ろしくもあり、また、何か惹かれるものでもあった。そろそろと近づいて…相手もこちらに気がついて。
 シャア、と、突然それは口を開けて怒鳴りつけた。何と言われたのかは分からない。ただ、敵意を感じた。

 『おお、汝、レレク蛇よ、ここまで進み来るなかれ。シュウとゲブとを見よ、今静かに立て。さすれば、汝はラアの嫌いしものたる鼠を食らうべく、汚れし猫の骨を咬み砕くべし。』


 その生き物も、やっぱり、人間たちには見えない「邪悪なもの」だったのだろうか。
 人間たちを襲おうとして、家の中に入って来たのだろうか。

 けれど、その時の彼には、そんなことは分からなかった。ただ怖かった。慌てて逃げようとした後ろ足に突然、鋭い痛みが走る。
 「…!」
とっさに前脚で、黒い生き物の頭を引っかいた。爪の先に鈍い感触がして、淀んだ血が飛び散った。細長い体はぴくりとも動かない。近づいて、おそるおそる匂いを嗅いで見て、爪の先でつついて…死んだらしいことを確認すると、ほっとして力が抜けた。
 後ろ足を見ると、噛まれたらしい自分の後ろ足の傷口には、ぽっちりと赤い血が滲んでいた。その辺りが痺れたようになって、感覚が無い。
 時間が経つにつれ、傷口は、じわじわと奥から熱を帯びていった。舐めても、舐めてもちっとも楽にならない。それどころか、全身が震えて、なんだか舌の感覚まで薄れてくる。背中が寒い。全身の毛が逆立ってしまったようだった。
 怖い。
 誰か、助けて。どうしてこんなことに? 一体、どうなってしまったんだろう?
 震えながら、蹲って戸口を見上げた。その向こうに見える澄んだ紺色の空に浮かぶ月は、そしらぬ顔で通り過ぎていく。冷たい、尖った白い月、銀の太陽。生命を与え、生命を奪う、治癒と破邪の神コンスは、地上で死に行く小さな命を、運命の手に委ねた。
 どうして誰も来てくれないんだろう。どうして、ここには自分ひとりしかいないのだろう…。

 「リノ…」

 メフェカトは、自分の口から漏れた声に、どきっとした。
 目の前に、過去の自分が見えたような気がした。何も知らなかったあの頃、死ぬことさえ分からなかった最後の夜に、口にした名前が、蘇ってきた。
 そうだ。怖かった。何度も何度も、その名前を呼んだ。だんだん意識が薄れていくのが分かって、自分がどこか遠くへ連れて行かれてしまうことが分かっていたから、必死で呼びつづけた。
 そして…
 ぽつり、ぽつりと落ちてくる水滴に気がついて目を開けたとき、死なないで、と泣いている少女の顔が、すぐ目の前にあった。
 「お父さん…メセス冷たくなってくの、どんどん冷たくなっていっちゃうよ」
 「蛇に噛まれたんだな。まだ小さいのに、戦って家を守ってくれたんだ」
父親らしい人の声。死んだ蛇を見下ろしている。
 「もう助からないわ、かわいそうだけど」
母親らしい人の声。
 「死んじゃうの?!」
 「…そうね。丁寧におまつりしなければね」
 「いやあ! そんなのやだよ! 死んじゃやだ!」
 「駄々をこねるんじゃない。リノ。いいことをして死んだものは、たとえ人間でなくっても、死者の楽園に行けるんだよ。」
泣きじゃくる少女を抱いて、父親が言う。
 「楽園はね。とても楽しいところなんだ。そこには、苦しいことも辛いこともない。大丈夫、メセスならきっと行ける…」
少女の腕の中で、そんな会話を聞いていた気がする。
 でも、自分はここにいる。
 どうしてなんだろう。何のために? リノが泣いていたから?
 分からない。あのときの自分は今よりもずっと子供で、自分の上で交される会話の意味なんか知らなくて、死者の楽園よりもこの世界に、リノの側にいたいと思っていた。体の上に降り注いでいた、涙を止めたかった。
 大好きな人に、笑っていてもらいたかった。

 そのために、今----ここにいる。

 「メフェカト」
呼びかけられて、記憶の中の少女の姿が薄れた。
 月明かりの中で、自分の目の前にいるのはネフェルトだ。メルカもいる。
 「メフェカト様。ご無事でしたか」
 「だいじょうぶ? けがしたの?」
 「ううん…だいじょう…ぶ」
自分が涙ぐんでいたことに気がついて、彼は慌てて顔を拭った。心配そうに、二人の人間が近づいて来る。何のためらいもなく手を差し出す少女に、メフェカトははっとしたような顔をしたが、何も言わない。
 「パケトは…。」
立ち上がろうとする腕を、小さな手がぎゅっと握る。
 「おっきな蛇を追いかけて行っちゃった」
 「え…。」
 「あれは、巨大で邪悪な霊でした。恐ろしい。あのようなものに、この町が呪われていたとは」
メフェカトは、少し青ざめた顔で身震いした。神官職にある彼には、普通の人間にはただ「怖い」としか分からない気配が、はっきりと感じ取れたのだろう。
 怒り、憎しみ、そして…哀しみ。この地にずっと住み続けて来た生き物たちが、住処を追われて上げた無念の叫び声だ。
 「大丈夫だよ」
微笑んで、メフェカトは、少女の手にそっと自分の手を重ねた。
 怖くないと言えば嘘になる。けれど、今は怖がっている場合じゃない。
 「僕、行かなきゃ。パケトはすぐ怒って戦いになってしまう。それじゃ駄目なんだ。彼らの住処を荒らしたのは僕たちのほうなんだから、ちゃんと仲直りしなくちゃいけないんだ。」
 立ち上がって、二人に見送られて外に出た。と、彼の体に、びゅうっと強い風がたたきつけてきた。
 町の外から、淀んだ空気が流れ込んで来ている。人間に害を成そうとする者たちの気配だ。
 「結界が…?」
破られたのか。
 遠くから、人の耳には聞こえない悲鳴が響き渡った。
 「…パケト!」
メフェカトは灰色の崖を目指して、後ろも振り返らずに走りだした。
 前にもこんなことがあった。
 あのときは、駆けつけたらネフェルトの叔母が倒れていて、そして…。
 戦う力が無い者は、どうすればいい? 誰かを、何かを守りたいと思うのに、武器を持つことも、相手を傷つけるのも怖い時は。
 戦うことでしか守れないわけじゃない。そう、パケトは教えてくれた。
 「『戦い方を教えて』? そんなの、アタシにだって分からないわよ。アタシは戦いの神。気に食わないヤツがいたら、取り敢えずひっぱたくのヨ。それ以外のやり方は、知らないわね。」
そう言ってから、ちょっと片目を細めた。
 「って…まァ、アンタはそれが出来ないんでしょ。分かってるわよ。だったら自分で考えなさいよ。世の中、守護の神だって十分やっていけてんだから、ひっぱたく以外にも戦い方ってのがあるんじゃないの? ヒントは…そうね。アタシに無くて、アンタにしかない力ってことかしらね。」
正直、よく分からなかった。叩いたり引っかいたり、傷つけたりせずに戦う方法とは、どうすればいいのだろう。パケトには無い力…、自分にしか出来ないこと…。
 風の切れ目が見えてきた。もうすぐ、町の出口だ。


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