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「ピラミッドは、何のために作られた?」

(ピラミッドが王の墓じゃなかった、と思っているアナタに捧ぐ)


ピラミッドは王の墓ではない。と言い切る学者さんが、日本にもいました。(ここでは、敢えて実名挙げない)
彼はこう言いました――「王のミイラが見つかったピラミッドは一つとして無い。だからピラミッドは王の墓ではない。」

残念ながら、それは間違いです。
王族のものと思われる遺体が発見されているピラミッドは、少なくとも、これだけ存在します。

第三王朝 ジェセル王 −左足と金のサンダル(本人のものかどうかは不明)、頭蓋骨の一部
第四王朝 スネフェル王 − 燃えたミイラの片足
第四王朝 クフ王の母 ヘテプヘレス王妃 − カノポス壷セット
第五王朝 ウニス(ウナス)王 −右腕、頚骨、頭蓋骨の断片、肋骨数本
第五王朝 ネフェレフラーー王 - 内臓壺とミイラの一部 20-25歳の男性
第五王朝 ニウセルラー王の王妃の一人? − 25歳前後の女性の破損したミイラ
第五王朝 ジェドカラー王 - ミイラの残骸 およそ50歳 玄室未盗掘のため本人と思われる
第六王朝 テティ王 −片方の肩と腕一本
第六王朝 テティ王の母 セシェシェト(シェシェティ)王妃 −頭蓋骨、足、骨盤の骨
第六王朝 テティ王の王妃イプト ミイラ本体
第六王朝 ペピ1世 − カノポス壷1つ(中身の内臓についての検証はなされていない)
第六王朝 メルエンラー1世 -王族の少年のミイラ 若くして亡くなったファラオではあるが、本人かどうかは不明


特にシェシェティ王妃の遺体は近年見つかっているので記憶に新しいかと思います。
埋葬の痕跡が見つからないピラミッドは、過去に盗掘されたか、何らかの事情で埋葬が中止されたもの、または埋葬に使うつもりのなかった儀式や象徴としてのピラミッドです。

ピラミッドなんていう目立つものが何千年も盗掘されずに無傷であるはずもないですよね。

しかもピラミッドのほとんどは、「入り口は北側の斜面に作る」という伝統的な規則に乗っ取って作られていました。盗掘を恐れて入り口を敢えて伝統とは異なる場所に作った王もいたようですが、ピラミッドは逃げませんから。そりゃ探せば入り口くらい見つかるでしょう。

埋葬品の一部や、ミイラの一部までが残っており、場合によっては内臓をおさめたカノポス壷の破片など、墓でしか見つからない遺物があるのだから、少なくとも一部のピラミッドは確実に墓として使われていたことが言えます。ただし、全てのピラミッドが墓だったわけではないのです。



ま、難しいことは言いますまい。
このページは、 スタート地点を誤ったエジプト初心者さんたちに、本来あるべき視点に戻ってから進んでいただくために 存在します。

新しい発見があれが、時として定説は覆ります。見つかったものの解釈を変えれば、目に見える事実も変わります。
しかし、存在するものを無かったことにしたり、明らかな誤りを事実のように語ることは許されません。


ピラミッドは、基本、「王の墓」である。
しかし、「墓以外の目的で作られ、あるいは使われたピラミッドも存在する」――


これが現在考えうる限り一番妥当だと思われる私の考えであり、このサイトで推奨する「出発点」です。
異論上等、ほかにもっとソレっぽい答えがあれば教えてください。中の人はいつでも歓迎します。


●ピラミッド イントロダクション


「ピラミッド」と、いうと、ギザの三大ピラミッドを思い浮かべる方が多いと思うのですが、実際のところピラミッドは、遺構のみで未確定のものも含めると、現在のエジプトに約140基あります。(※内訳はこちら/メロエ文明のピラミッドも含めれば300程度あるという) ギザ台地の上に3基並ぶピラミッドは、その中の代表的な3基に過ぎません。

そして、ピラミッドはずっと作り続けられていたわけではなくて、古代エジプトの約3000年の歴史の中で、主に古王国時代と呼ばれる時代に集中して作られたものです。(第一中間期をはさんで、中王国時代にも若干作られていますが、既に巨大なモニュメントではなくなっています)





古代エジプトの歴史は、慣例として大きく「古王国時代」「中王国時代」「新王国時代」と、3つに分けて考えられています。
その中で、古王国時代とは、紀元前2600年ごろから2100年ごろまでの約500年間。その中時代の30人弱の王様たちの時代に、今知られているピラミッドのほとんどが建設されました。(詳細は王名リストを確認してください。名前の横にピラミッドマークがついてる王様たちはピラミッドの残っている人)

古代エジプト文明が、一般的にイメージされるような文化を持っていたのは、上記の3つに分けられている時代です。
それ以前の「初期王朝時代」には、まだヒエログリフも開発中、ピラミッドの作り方も確立しておらず、巨大建造物を作るだけの国力がありません。また、それ以後の「末期王朝時代」には既に王の権力が衰えており、巨大な建造物を何十年もかけて作れるだけの余力がなくなっています。ギリシア文化と交じり合って、エジプトの独自性が変化しつつあった時代ですので、エジプトの雰囲気とギリシアの雰囲気が交じり合った、一見してエジプトのイメージとは異なる美術品や宗教遺物が残されています。

つまり「古代エジプト」と言って思い浮かべられる世界というのは、意外に限られた時代だということ。
日本で「伝統的な古代日本」と言って平安時代を思い浮かべるか、江戸時代を思い浮かべるか、みたいなものです。
ピラミッドが作られていた時代を古墳の時代に喩えるならば、「エジプトにだって縄文時代はあるし、江戸時代までくればもう古墳なんて作ってねぇんだYO!」…ってことです。



さて、ピラミッドの多く作られた古王国時代に戻ります。
古王国時代とは、クフ王やメンカウラー王など、歴史の教科書にも載ってそうな王様たちがいた時代。

ツタンカーメンやアクエンアテンは、新王国時代なので、もっとずっと後。
クレオパトラはプトレマイオス朝時代なので、さらにさらに、もっとずーーーっと後になってから登場します。聖徳太子と豊臣秀吉より世代が違います。


ピラミッドを造った王様たちは、ピラミッドと一緒に、スフィンクスや神殿を作っていました。
ピラミッドが本体とするなら、神殿はその入り口。スフィンクスは門番です。今は砂に埋もれてしまっていても、ピラミッドには、必ず付属する神殿や施設がありました。これらは、セットで「ピラミッド複合体」と呼ばれます。

ギザの三大ピラミッドもこの原則に則っており、ピラミッドだけ砂漠の真ん中にあるわけではありません。ピラミッド本体は神殿から続く長い長い回廊を抜けた先にあり、ひとつの施設として作られています。



↑ギザ台地の、建造物配置図。本体から神殿に向かって、それぞれに参道が伸びています。


ピラミッドが立っている場所は、ナイルの流れが岸を削ってできた丘の上です。昔は河が氾濫するとスフィンクスの近くまで来ていたようですから、船で石を運んできて、そこからピラミッドをつくる場所まで引き上げたのでしょう。

参道がナナメになっているのは、地形のせいもありますし、河の近くに神殿を作ったためでもあります。
上からの図だと分かりにくいですが、ピラミッド周辺は丘になっていて、かなりの高低差があります。地面の高さだと、図のいちばん上にあるクフ王のピラミッドのほうが高いのですが、実際の風景では、真ん中のカフラー王のピラミッド(少し高い場所に建てられている)が、いちばん大きく見えます。

ピラミッドについて論じるならば、それ本体だけではなく、周りにある神殿などの施設についても考えに入れなくてはなりません。
周囲に神殿があることからして、ピラミッドは、宗教儀式に関係した施設であると考えるのが妥当なようです。そして、ピラミッド型をした「ベンベン石」と呼ばれるものが太陽信仰に使われることから、太陽信仰にかかわりがあるのも明らかです。
また、第五王朝からピラミッドの中に「死者の書」、日本で言うところのお経のようなものが書かれ始めますので、まぁ、死者の書のあるピラミッドは墓として作ったと見ていいんじゃないかね? と、思うわけです。墓以外のもので、内部にお経書く建物って、あんま思い浮かばなくないですか?

ピラミッドが盛んに作られた古王国時代は太陽神ラーの崇拝が盛んだった。ということからして、「ピラミッドは、死せる王が太陽と一体化するために天に昇るための装置として作られたのではないか?」 …と、いうのが、今のところ、いちばん真実らしい説なんですね。
実際、世界的にはそのような意見で動いています。たぶん冒頭の「死体が無いからここは墓じゃないんだよ!」説の学者さんは、かなり浮いた存在、…場合によってはトンデモ学者に類される可能性すらありますので、ご注意を。

ちなみに「ピラミッドは失業者対策や経済振興のために立てられた」という説もありますが、現時点では、これも眉唾ものと思ったほうがよろしいかと。
何故なら、ピラミッドは、実際にそのような効果があったとは思えないにもかかわらず、財政を逼迫しながら作り続けられていたからです。どの程度の経済効果があったのか、その効果は果たして、何百年にも及ぶピラミッド建造を積極的に推進させるほどの原動力となりえたのか。そして、都市や神殿といった、ほかの建造物を作るより意味のあることだったのか。その具体的なデータが出ない限り、この説は無意味です。
副次的な効果と、本来の目的を取り違えてはならないということです。


●エジプトには、空墓(セルダブ)というものが存在する

もう一つ、ピラミッドの中に王のミイラが無かったとしても、ピラミッドが王の墓として機能したという根拠があります。
それは、「空墓」、アラビア語で”セルダブ”=地下室 と呼ばれる形式の墓の存在です。

セルダブは、古代エジプト語では「ペル・トゥト」と呼ばれました。
ペルは「家」の意味。トゥトはトト神ではなくトゥトゥ、つまり「彫像」を意味します。彫像の家、――つまり、死者の生前の姿を象った像を納める、遺体のない密室のことです。

セルダブは、まさにピラミッドが作られていた第四王朝頃に最初に登場します。ピラミッド以前に王墓として使われ、ピラミッド時代には有力な貴族の墓としても作られていたマスタバ墳墓の中に彫像を収める部屋が作られ、そこに死者の像を収めていたのです。像には死者の魂の一部が宿るとされ、その魂は、部屋に作られた細い「覗き穴」や、墓に作られた、実際は開かない、岩壁に刻まれた扉…「偽扉」から自由に出入りし、現世をのぞき見るとされていました。

何かに似ていると思いませんか。
そう、ピラミッドの中の密室。大ピラミッドの「王の間」と呼ばれる部屋には、何本もの細い”シャフト”が外にむけて作られていました。セルダブの構造に似ています。
もし、その場所が、王の「遺体」ではなく「生前の姿に似せた彫像」や「魂の一部」を収めるために作られていたとすれば、そこにミイラが無くても当然のことです。また、そこにある棺が、人間の遺体を収めるのに小さすぎても問題はありません。(中に収める予定なのは、像ですから。)

ピラミッドの中で、既に見つかっている部屋というのは王の遺体を収めるための部屋ではなく、彫像を収めるための「儀式的な墓」だったのではないか、遺体を収める墓は別の場所ではないか? というのは、ずっと昔から学者さんたちが提唱してきた仮説です。新しい話ではありません。――ただ、像があったとしても既にそれは失われ、王の「遺体を」収めた墓、というのが、まだ見つかっていないということです。


●墓ではない、とされるピラミッド

近年になってから見つかったもので、クフ王のピラミッドに付随する「第四の」衛星ピラミッド、本体の南東から発見された。GTd(G1-d)と呼ばれているものがあります。






表記されてる図は発見できず。写真からして、ピラミッドの南東の角のすぐ近くなので、黄色いやじるしの辺りかと。
これについては、構造が単純であることや、規模が小さいことから、

・内蔵(カノポス壷)のみ収めていた
・副葬品専門、または王冠のためのピラミッド
・遺体の一時安置所、またはミイラ化するための遺体の乾燥作業を行う場所
・王位更新のための儀式「セド祭」の施設

と、いった、「王・王族の墓」以外の使用目的が挙げられています。まあ、…「複数あるピラミッドの一部は、王墓ではない」という説は、別に珍しくもないものなんですね…。ピラミッドごとに目的が違うのなんて当たり前、というか、1つ1つ規模や構造が違うわけなので。


●個人墓としてのピラミッド


王の権力が弱まり王たちが大規模なピラミッドを築かなくなったあとの時代、一般人や貴族たちが自身の墓を立派に作るようになると、墓に、自分専用の小さなピラミッドを加えるようになります。ギザの大ピラミッドの周辺にも、そのはしりのような小さな石積みの墓が存在しますが、再現図はこんなかんじ↓



墓のてっぺんにピラミッドをつけています。ピラミッドは、墓石というか、フタのような役目を果たしているわけですね…。

こうした小型のピラミッドは、もはや大型のピラミッドが作られなくなっていた時代の墓である「王家の谷」にも、作られたとされる記録があります。大英博物館が所蔵する「アボット・パピルス」には、王家の谷に作られた第十一王朝から第十八王朝までの王たちの墓が記されていますが、その中で第十八王朝のアメンヘテプ1世のもの以外の9つの墓について、「メル」(エジプト語でピラミッドを意味する)という言葉がつけられています。
このピラミッドは日干し煉瓦で作られた脆いものだったようで、現在は残っていませんが、少なくとも存在したという証拠(遺構、記録)は見つけられます。

「ピラミッド」と「墓」はワンセットになっており、この場合の建造目的は明らかです。

巨大なピラミッドが作られていた時代と、のちにピラミッドが小型化した時代の使用目的が異なるという証拠はあるでしょうか? これらの、墓と確定された多くの小型のピラミッドの存在は、その前段階である巨大なピラミッドもまた、墓とする意図をもって作られたことの証明であるように思われます。


●まとめ

古代エジプトの時代は遠くはるかに過ぎ去り、その時代を正確にうかがい知ることは、困難であると思います。
正確に再現することも不可能でしょう。「ピラミッドが何のために作られたか」ということも、可能性の高い答えを得ることは出来ても、絶対にそうなのか、全てそうだったのか、例外はないのか、といったことまでは保障がありません。

しかし、古代エジプトに対する興味を持つ人は多く、考古学の世界でも人気があるため、手にすることの出来る資料は、他の古代文明より多いくらいです。幸いなことに、シロートでも手を出せる、たくさんの書籍や図録も出版されています。
その中で、敢えて極論に走らないこと。 一人の人の言うことだけを信じないこと。
これが重要だと思います。(もちろん、このサイトだって全面的に信用してもらっちゃ困ります。自慢ではありませんが、しょっちゅう間違いを訂正してます)

広くて深い世界だからこそ、まずは王道(基本)から。王道が納得できないのであれば、王道を突き崩していってください。そして一つ。「答えは、いつも手元に転がっているとは限らない」。
まだ答えのない疑問を謎のまま終わらせるのではなくて、人に答えを教えてもらうのではなくて、探してみれば、きっと楽しいと思います。

まぁあの、ここのサイトの人も専門家では無く、ただの物好きなんで。
そこんとこ、ヨロシク。


さらに興味のある方は、ハード版もドウゾ。なお内容的にはハードですのでご注意を。