灰色の町の守護者…16


 作業は、慌しく進められていた。
 静けさを取り戻していた石切り場に、作業人たちの振るう槌と楔の音が再び響き始めた。石の割れる甲高い音が谷間にこだまする。挑発的とも思えるその作業は、切り出した石を谷の反対側に運び、組み立てる作業に続いていた。
 水路を挟んだ対岸の、町の側の崖には洞窟が掘られ、その入り口に何かが築かれている。
 指揮するのは神官メルカだった。人々は汗を流し、何かに怯えながらも作業を続ける。その首には、魔除けの石が下がっていた。
 「ま、気休めに過ぎないけどね。アタシたちがこうして見張ってるんだから、向こうだってそう簡単には襲って来られないでしょうね。」
メフェカトは、押し黙ったまま、町と石切り場との境に立っていた。
 メルカにこの作業を命じたのは、彼だった。
 どうしてそんなことを思いついたのかは、分からない。けれど、それしか方法は無いように思われた。
 このまま、終わらない戦いを続けているよりも、誰かが傷ついて悲しい思いをするよりも、遥かに良いと思った。
 「でも、まさか、こんなに早く来るとは思わなかった。」
 「え?」
パケトは、微笑む。
 「アンタが自分から何かするってこと。神官を通して、町の人々に託宣出来るのは、それなりの信頼を勝ち得た神だけなのよ。御覧なさいよ。人間たち、アンタのこと信用してるから動いてくれてるんでしょ。」
そうなのだろうか。

 メルカにこの考えを告げたとき、彼はすぐに町の人々にこのことを伝えた。
 町中で毒蛇に噛まれて犠牲者が出たすぐあとなのだから、守護者としての惟謙を問われそうなものなのに、人々は、文句も言わず従ってくれた。石きり職人たちは、季節はずれの重労働に従事してくれた。
 「本当言うとアタシ、アンタみたいな『生まれたて』に、こんな大役勤まるはずないと思ってたのよ。ここは辺境だし、アンタはトロいし、アタシ一人じゃどうにもなんないじゃないの、なんてね。」
 「僕は、何もしてない。何も出来ないよ…パケトみたいな力も無い」
 「そういうんじゃないのよ。神だなんて言ったって、所詮は形の無い存在。望まれればそこに在り、望まれざるは消え行くさだめ。アンタはこの町の人々に望まれてるから、今、ここにいる。彼らが望めば、どんなことだって出来るわよ。守護者ってのはね、そういうモンなんだから。」
 「そう? 僕、役に立ってる?」
 「ええ。」
パケトは、嬉しそうでもあり、少し寂しそうにも見えた。
 何故なのだろう、このまま、彼女がいなくなってしまいそうな予感がした。目が覚めたときから側にいてくれた、何も知らない自分に、何をすればいいのかを一つずつ教えてくれた、パケト--- 怒りっぽくて、気まぐれで、ちょっと気が強いけれど、意地悪ではなかった。
 でも、考えてみれば、彼はパケトのことは何も知らないのだった。ちょうど、この町に来る以前の自分のことを何も知らないように。
 「ねえ、パケト。」
 「何?」
灰色の猫が振り返る。
 「僕さ、夢の中で誰かに呼ばれてるんだ。呼んでるのは、たぶん人間の女の子で、なぜだか分からないけれど、その子はいつも泣いているんだ。僕、その子に泣き止んで欲しくて…、笑っていてって言いたくて、でも、出来ないんだよ。」
 「……。」
パケトは、金色の瞳を少し細めて、石切り場の風景に視線を戻した。
 「その子、なんて名前だった?」
 「え…。いや、それは分からないよ。でも、呼ばれてるとき、僕の名前はメ…」
 「言わないで!」
激しく、制止する声が飛んだ。それは、今まで効いたこともないような、厳しい声で。
 「…パケト…?」
 「言っちゃ駄目、絶対に言わないで。いいわね、その名前は、あんたの心の中にだけしまっておきなさい。絶対に口にしてはいけないの、誰にも知られてはならないわよ。」
 「それって…。もしかして」
メフェカトの脳裏に、この町に来たばかりの時の、パケトとの会話が思い出された。

 『本当の名前は、何なの?』
 『それは教えられないわよ。神や精霊にとって、本当の名前っていうのは、本質を表すものなの。言ってみれば弱点みたいなものよ。』

 本質をあらわす名前。誰にも知られてはならない本当の名前。パケトの名前も、自分の名前も、それではない。けれど、メフェカトは、自分でもその名前を知らなかった。
 「僕の本当の名前? ねえパケト、あれが僕の本当の名前なの? でも、どうして? どうして、僕はそのことを覚えてないの?」
 「----。」
 「答えてよ、パケト! 知ってるんでしょ? この町に来るまで僕がどこにいたのか。何をしてたのか。」
パケトは、重い口を開く。
 「知ってる…といえば知ってることになる…。でも、それはアンタであって、アンタじゃないわ。今のアンタは、この町に来る時に生まれた。『生まれたて』なのは本当よ。アンタは生まれたばかりの神だった」
 「でも…。」
 「それは、神の記憶じゃない。アンタが、まだ… 人間たちと暮らしていた時代の記憶よ…。」
日差しの中で、砂の匂いのする風が舞った。
 「僕が、人間と暮らしてた?」
懐かしい、と感じたのは、守りたいと思ったのは、初めてではなかったから?
 「人間たちは、人間以外の生き物を家族とし、共に暮らすことがあるわ。アンタは、そうして飼われていた家猫だった。でも、その家族と、よほど深い絆で結ばれていたのね。死んだあとも、アンタの魂はその家族とともに在ることを願いつづけた。死んで、ミイラにされて、聖獣たちの神殿に納められたあともずっと…。」
ブバスティス、古名バストの町には、猫の姿をした女神バステトのための神殿があり、人々は、家族として暮らしていた猫たちの遺骸をそこに丁重に葬る。人と同じように、あるいはそれ以上に思いをかけて、永遠を生きるミイラとして。
 何千、何万の幸せな魂たちがそこで安らかな眠りについていた。
 女神パステトとその眷属たち、同列にあがめられた、母であり姉である猫女神たちが、その眠りを守っていた。
 「思いを持った魂は、死者の楽園に行けず精霊になって現世を彷徨う。放っておけば、悪い精霊になってしまうことだってあるわ。アタシたちが戦っている、あれのようにね。だけど死者の国への入り口を知る大神は、無理にアンタを送り出すことはせず、試してみることにしたの。魂を現世に繋ぎとめるその思いが、人間たちにとって良きものであるのかどうか。――アタシは、その判定人みたいなものだったのよ。」

 人に愛され、人とともに生きた者だけが、良き精霊となる。
 人の祈りを勝ち得た魂は、永遠のものとなる。

 「ずっと一緒にいたから、分かるわ。アンタはいい守護者になれる。ちょっと頼りないけどね、アンタの人間たちにかける思いは本物。きっと、いい家族だったのね。アンタを育ててくれた人たちって。」
 「……。うん、きっと…。」
幸せだったことだけは、確かだった。おぼろげに覚えている。
たくさんの情景の中で、女の子が笑っていて、川辺に沢山の緑が揺れていた。ずっと一緒にいたい、笑っていて欲しい、強く刻み込まれたその思いは、体を失ったあとも消えなかった。
 ”人を守るために――人自身が育てた守護者”。

 「コレ、本当はまだ言っちゃいけなかったの。判定が出て、そのことを上の神々に報告するまではナイショだったの。」
そう言って、パケトは悪戯っぽく笑った。
 「さて。そろそろ仕事も仕上げに入るわよ。アタシたちも行きましょ」
 「そうだね」
時間は過ぎて、東の空から次第に深い藍色が迫って来る。
 夜は不可視の時間だ。人間たちには伺い知れない深い闇の中で、人に思われることのなかった精霊たちが、憎しみを抱いて動き始める。
 町には火を持った人々が集まり、神官メルカを中心として何か話し込んでいた。
 女性や子供たちは家の奥に隠れ、外の様子を恐る恐るうかがっている。

 長い夜が、始まろうとしていた。


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