灰色の町の守護者…17


 「どんな隅々も見逃さないように! いいですか。一匹も逃してはなりませんよ!」
神官メルカの先導のもと、人々は町じゅうに散らばっていく。油に灯したランプの火がゆらめき、町のありとあらゆる場所に何かをたたき出す音が響いていた。
 強い、魔除けの香の匂いが漂う。清めの軟膏を手足に擦り込んだ男たちが、手にした布やロープを手に、物陰を探り、孔をかきだす。小さな虫、トカゲ、ありとあらゆる生き物が暗がりから追い出された。もちろん、紛れ込んでいた蛇もだ。
 「パケト、敵の気配は感じる?」
 「いいえ、今んとこ。…おかしいわね。奴ら、町の中にはもう居ないのかしら?」
 メフェカトたちは、町でいちばん高い場所、つまり神殿の屋根の上に立って、辺りを見回していた。
町の結界を形作る境界石は、すべて正常に機能している。悪しき精霊たちは、外からも、中からも、越えることは出来ない。逃げる暇は無かったはずだ。町中に紛れ込んでいたものは、そのまま閉じ込められているはずなのだが。
 「人間たちに追い出しをかけさせるのは間違ってたかもしれない。こんなに人間の気配が強くちゃ、奴らの気配が感じ取れないじゃない。ああ、もう」
イライラしたように毛並みを逆立てるパケト。メフェカトは、視線を空に向けたまま、じっと辺りの気配に意識を研ぎ澄ませていた。
 考えてみれは---「敵」の気配は、自分たちが最初にこの町に来た時からしていたのだ。
 ネフェルトと出会ったあの日、はじめて町に出て道に迷った日も、そうだった。どこからともなく投げかけられる、強い視線に動けなくなった。今よりずっと弱い存在だったから、その視線に抗うことなんか出来なかった。
 でも、今は?
 今なら…。
 「あ、ちょっと! どこ行くのよ!」
神殿の屋根から飛び降りたメフェカトは、ネフェルトの家のほうへ向かっていた。彼女は、今はそこにいない。父も叔父も蛇狩りに出てしまって、誰も面倒を見られる人がいないので、近くの家に預けられている。
 けれど、なぜか無性にその場所が気になった。何か、言葉にならないものを感じ取っていた。
 誰もいない真っ暗な、がらんとした家の中には、人のいた気配だけがかすかに漂っている。ぬくもりの無い、冷めた空間。

 ----いつかも、こんなふうだった。
 真っ暗な部屋の中に、ひとりで帰りを待って…その時…

 はっ、として、メフェカトは手を額に当てた。
 唐突に過ぎった情景。寂しさ。恐怖。体が竦むような…これは…、この記憶は一体?
 『何故だ』
カサカサ、と壁のほうで音がした。
 振り返るメフェカトの眼に、闇を這う細長いものが見えた。
 壁の透間だ。日干し煉瓦で造られた、この建物の壁の中に空洞がある。彼はそのことに気がついた。蛇たちは、ここをねぐらにしていたのだ。町じゅう探したって、見つかるはずがない。
 「何故、お前たちは我らの邪魔をする。何故、我らと戦う。何故、人間たちを庇う。」
空気を吐き出すシュウシュウという声。
 それは、ネフェルトの叔母を噛み殺した、あの時の蛇だった。
 「僕からも聞きたい。何故、お前たちは僕たちと戦うんだ。人間たちを憎んで、殺そうとするんだ? お前たちは何を望む。戦いか、死か、それとも共存か?」
メフェカトは僅かな躊躇いだけで、ナイフを引き抜く。以前は持っていることも恐ろしくて震えていた重い金属を構えた。
 「脅しながら…話し合いか…守護の神よ」
 「君たちとは戦いたくない。崖の対岸に、君たちのための新しい住処を用意した。あそこへ移ってくれないか? そうすれば、僕たちはもう争わなくて済む。君たちも、住処を追われることはない」
 「勝手な言い草だな…。いかにも、人間たちに飼われていそうな言葉だ」
冷たい汗が背中を流れた。嘲笑うよな蛇の言葉が、記憶の片隅に触れて嫌な音を立てる。
 「何を望む。戦いか、平和か。ここで死ぬか、共存の道を歩むか…」
 「見くびられたものだ! 貴様のような『生まれたて』の神ごとき、本気を出せば容易くひねり潰せる!」
その言葉を裏付けるように、目の前で蛇が膨れ上がっていく。闇の中に輝く双眸が赤く、燃え上がるようで、射すくめられたメフェカトは動けなかった。
 ----その牙は炎のように熱く、
 毒は身を焦がし、冷たい汗を流す。死の苦しみの中でもだえながら、最後に思ったのは…。

 「メフェカト!」

 突き飛ばされて、地面に転がった彼の目の前に、強張ったパケトの顔があった。
 「おばか、何やってンのよ! 死ぬ気?!」
飛び散った毒液が、地面でシュウシュウと煙を立てている。猛毒だ。体に入れば、一瞬で心臓を止めてしまうだろう。
 表から、町の人々の悲鳴と、逃げ惑う足音とが聞こえていた。
 「外へ逃げたわよ! このままじゃ、結界を破られる。逃がしたら、次に掴まえられるのはいつになるか!」
叱咤する声にも、メフェカトは、動けないでいた。
 「…僕、思い出した…」
 「メフェカト?!」
 「思い出したんだ。僕が、どうやって死んだのか。あのとき、あの日もこんなふうに…」
 「…!」
早すぎた、パケトは唇を噛んだ。
 彼の瞳の奥に宿るのは深い恐怖、かつて、人とともに生きていた時代の終焉に刻み付けられた感情だった。


 「----記憶を封印しておく?」
パケトが問い返した相手は、困ったように笑う。
 「そんな大層なものでははないよ。ただ、隠しておくだけさ。個人的な感情に引きずられないようになるまでには、時間がかかるはずだからね。」
 ミイラとして神殿に捧げられた飼い猫の魂が精霊となって彷徨っていたとき、その精霊を神として新しい町に送り込むことを決めたのは、魂を導く神のひとりだった。
 この世に強い未練を残していては、死者の楽園に受け入れることは出来ない。その思いを浄化するためには、色々な方法がある、たとえば…神殿に祀って、魂の満足するまで慰めるなど。しかし、この神は、そういった方法を選ばなかった。
 「彼は、人とともに生きたいと願っている。成し遂げられなかったことをやり直したい、という強い思いがある限り、彼の魂は満たされることは無いんだ。だから、もう一度やり直させる。」
 「だったらフツウに転生でいいじゃありませんか。オシリス様に話、通せばそれでいいんでしょ?」
 「いや。僕は、彼には守護者としての素質があると思う。今度、新しい町が川の上流に出来るんだ。彼には、そこに行ってもらおうと思うんだよ。」
 「ハア? じゃ、『神』に昇格させるってことですか?」
精霊から弱小な神への昇格は、難しいことではない…が、たとえ神として祀られても、人間たちに信頼され、自らの意思を持って動くことが出来なければ、いずれは消えてしまう。まかり間違えば、満たされない思いだけを抱いて彷徨う邪霊になりかねない。
 「幾らなんでも、それはムリでしょ、トト様。」
 「ムリじゃない。責任は僕が取る。イシス様にも許可は貰ってあるしね。何より…彼の気持ちは無駄にしたくないから。」
 「って…。あーあもう。どうしてそう、見知らぬ他人に入れ込むんですか? 死者の楽園行きをイヤがる魂は、何千何万って在るんですよ。その一つ一つに入れ込んでたら、身が持たなくなるじゃないですか。」
 「そうかもしれない。でも、どんな小さな魂でも、どんなささやかな願いだって、当人たちにとっては掛け替えのないものなんだ。忙しい、とか、手が回らない、とかいう理由で、ないがしろにしていいものじゃないさ。」
溜息をついたパケトは、ちょっと肩をすくめるような仕草をしてみせた。大神の一人の決定だ。大した力もない、下級神にどうこう言えるものでもない。
 「はあーあ。で? アタシは何をすればいいんです? 彼の養育係?」
 「それもある。でも、それ以上に重要な役目を君に託したい。」
 「?」
そのとき、魂の選定者の一人であるトトは、彼女に告げた。---役目を与える、と。
 「パケト<切り裂く者>。万が一、彼の魂が守護者として相応しくないと思ったなら、その名において、君の手で浄化してやって欲しい。連絡役は、ウプウアウトが引き受けてくれる。」
 「ええ? ちょっ…アタシそんな、魂の選定役なんて!」
 「それだけじゃない。きっといつか、彼には君みたいな人の力が必要になるはずだから。…頼んだよ。」
知恵の神の言うことは、難しくてパケトには理解できない。彼女にとっての愉しみは闇に紛れて狩りをし、敵の喉を切り裂くこと、悪しきものたちに裁きの爪を振り下ろすこと。敵とも味方ともつかない者に、興味は無い。
 だが、自分より高位の神々の命には、随わねばならない。まして、ある程度の未来を予測出来るトト神のことだ。何か、重要な予言がそこに含まれているのかもしれない。

 神々は、新たな神に、元の獣に近い姿ではなく、人間そっくりの形を与えた。彼は記憶を隠されている。自分がそれまで何処で何をしていたのかも、自分の本当の名前も、何をすべきなのかも全く知らない。白紙のままの、無垢な子供と同じだった。
 新しい町へ移住する人々とともに灰色の谷を行くとき、パケトは、トト神の言ったことを、あまり深くは考えていなかった…。


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