灰色の町の守護者…18
『いつか、必要になるとき』のことなんか、どうして予想出来ただろう。
トト神がメフェカトの記憶を「隠した」理由なんか、どうして想像出来ただろう。
彼が生身の獣としての一生を負えた原因が「敵」にあって、その時の恐怖が過去の記憶に深く染み付いていることを知っていたなら、あんな軽率なことは口にしなかったのに。自分のせいで、彼は、恐れることを思い出してしまったのだ。
「アタシのせいね。アタシが、余計なこと口滑らせちゃったから…。」
メフェカトは、答えない。外から聞こえる激しい物音。小さく震える手元に目を落とした彼女は、口もとをぎゅっと結んだ。
行かなければ。
「…アンタは、ここにいなさい。怖いかもしれないけど、戻るまで我慢するのよ」
戦いの神ではない彼が戦えないことくらい、最初から分かっていた。追い込まれて、恐怖したとき身を奮い立たせることが出来るのは、闘争心を生まれ持つ攻めの神々だけだ。守護の神は、自分の身を守ることが出来ても、武器を持って敵に挑むことなんか、出来はしない。
メフェカトには、素早く踵を返して外に飛び出していくパケトを視線で追いかけるのがやっとだった。
そうだ、誰にだって、怖いものくらいある。
神だって同じだ。なぜなら、神の魂も、人のそれも、他の動物たちのものも、みな、本質的には同じものだからだ。ただ、肉体という束縛だけが違っている。神は…その意味では、自由だ。
けれど、永遠に神としての役目に縛られる。魂に自由を持つのは、むしろ、有限の時を生きる者たちかもしれない。
息を弾ませて走るパケトの目の前で、幾つもの闇が弾け、風が切り裂かれた。
「神官! メルカ、どこなの?!」
「ここです、パケト様!」
逃げ惑う人々の間に、白い衣がちらりと見えた。
「すぐに人間たちを避難させなさい。万一、結界が破られたならすぐに閉ざすのよ! それから…」
渦巻く黒い風は、人間たちの目にも見えていた。相手が何なのかはわからなくとも、本能で恐怖している。何か悪しきものが町の外に出ようとして暴れ来るっているのは、分かるのだ。
奥歯を噛み締めたパケトは、低く叫んだ。
「それから、メフェカトをお願い!」
返事を確かめずして、彼女は町を走り抜けた。
向かって来るものに気がついた蛇が、振り返る。
それは、一匹の蛇ではなかった。多くの恨みや憎しみを取り込んで生まれた、巨大な精霊だ。それが、蛇の形をして、夜空を背に揺らいでいる。
「正体表したわね。アンタがこの地の邪霊の親玉ってワケ。」
「…戦いの神か。その、ちっぽけな爪で我を倒そうというのか?」
「試してみる?」
パケトの前脚に、爪が伸びた。だが、蛇はせせら笑う。
「無駄だ。貴様は破邪の神ではない。いきがるのは止せ、下級神が。おのが守護地を出ては、その力は存分に振るえまい」
「言ってくれるじゃないの。見たトコ、アンタここに住み着いて長いんでしょ? 地の利はあんたのものね。でもね、こっちだって退けないのよ。」
「…あの、守護の神はどうした。」
むっ、としたように、彼女は怒鳴った。
「どうだっていいでしょ! あのコは戦う力なんか持ってないのよ、もともとね。アンタも、優しいメフェカトが相手のうちに大人しく引っ込んでくれりゃ怪我せずに済んだのよ!」
「…それは…」
すうっと爬虫類の目が細くなる。
「どうかな…。」
気配が膨らんでいく。辺り一体の谷間から、風が集まって来る。パケトの背には冷たい汗が滲み、ともすると、足は、後退してしまいそうになった。
逃げ出したい。格が違いすぎた。
風のわだかまる谷間は、行き場をなくした魂たちの集まる場所でもある。---ここは、古い魂たちの集まる場所だ。ナイルの神ハピの恵みの結界の外、赤茶けたデシェレトの国は、本来、神々の手の届かない、無法の地なのだ。神々は、その本来の力を発揮することが出来ず、逆に、人に害を成す精霊たちの力が増す。
今さらながらに、こんな場所に町を創ったことが、ひどく無謀に思えた。町は、この、人でも、神でも在らざるものたちの空間を、結界で切り取っただけに過ぎない。しかも、町を守る守護者は、生まれたばかりの何も分からない神だった。
(今さら、そんなこと言ったってしょうがないじゃないの)
自らを奮い立たせるように、パケトは心の中で呟いた。大神トトが責任を取ると言った。真実と秩序を司る者でもある神が、嘘をつくはずはない。この、無謀とも思える賭けにも、何か意味があるのだと思わなければ。
「後悔させてあげるわ。アタシにだって、意地ってもんがあるんだからね!」
しかし、その叫びは、怯えた者が必死に勇気を奮い立たせようとするときの声に似ていた。相手の心のうちを見透かすように、谷風が乾いた唸り声を上げる。
その時、銀の月は、ゆっくり天を過ぎろうとしていた。